倭の五王の謎|なぜ古代日本の王たちは、中国に使者を送り続けたのか【後編】
倭王武が中国へ送った文章
倭の五王の中でも、特に興味深い人物が倭王武です。
478年、武は宋へ使者を送り、皇帝に対して自分たちの立場を説明する文章を提出しました。
現在、倭王武の上表文として知られているものです。
この文章には、倭王の祖先たちが長い年月をかけて各地を平定してきたという内容が記されています。
東方の55国。
西方の66国。
そして海を越えた北方の95国。
武は、自分たちの祖先が広い地域で活動してきたことを主張しています。
もし、この記述をそのまま受け取れば、倭王の勢力は日本列島の広い範囲だけでなく、朝鮮半島にも及んでいたことになります。
しかし、私は、この数字をそのまま実際の征服地域の数として受け取ることには慎重でありたいと思います。
なぜなら、この文章は中国の皇帝に提出された政治的な文書だからです。
自分たちがどれほど広い地域をまとめてきたのか。
どれほど大きな働きをしてきたのか。
そして、なぜ高い称号を与えられるべきなのか。
そのようなことを説明する目的があったはずです。
現代でも、外交や政治の場では、自分たちの実績や立場を強調することがあります。
古代の王たちも、同じように自分たちの権威を大きく示そうとしていた可能性があります。
ただし、文章が政治的な目的を持っているからといって、すべてが事実と異なると決めつけることもできません。
重要なのは、倭王武が、自分たちの祖先は長い時間をかけて勢力を広げてきたと、中国の皇帝に説明していることです。
そこから、当時の倭王が自分たちの歴史をどのように捉えていたのかを考えることができます。
王の権力は、どこまで及んでいたのか
倭王武の上表文を読むと、倭国の王が広い地域に影響力を持っていたように感じられます。
しかし、ここで考えてみたいことがあります。
当時の王権は、現在の国家と同じような仕組みで日本列島を治めていたのでしょうか。
現代では、国の法律や行政の制度が、広い範囲に及んでいます。
しかし、5世紀の日本列島には、まだそのような統一的な制度が十分に整っていなかったと考えられています。
各地には、それぞれの有力者がいました。
地域ごとの社会があり、暮らしを支える仕組みも存在していたはずです。
もし倭王が広い地域に影響力を持っていたとしても、すべての土地を直接管理していたとは限りません。
地域の有力者が、倭王との関係を認めることで、一定の協力関係を築いていた可能性もあります。
また、政治的な立場によって、その関係の強さにも違いがあったでしょう。
ここで、第8回で考えた前方後円墳の広がりを思い出します。
日本各地に共通する形の古墳が築かれました。
しかし、同じ形の墓があることだけで、すべての地域が同じ政治的な仕組みに属していたと判断することはできません。
倭王武が主張した広い勢力範囲と、日本列島に広がる前方後円墳。
この二つを重ねてみると、広い地域を結びつける何らかの政治的な関係が生まれていた可能性は考えられます。
ただし、それがどのような仕組みだったのかについては、まだ多くの疑問が残されています。
鉄と技術を手に入れるためだったのか
ここで、ものづくりの視点から倭の五王の外交を考えてみたいと思います。
古墳時代の社会において、鉄は非常に重要な材料でした。
農具。
工具。
武器。
さまざまな道具に鉄が使われていました。
例えば、木を加工する場合、鉄製の工具があれば、石器とは異なる加工が可能になります。
木材を切る。
削る。
穴を開ける。
そして、複雑な形に加工する。
こうした作業には、道具の性能が大きく関わります。
また、鉄製の農具が普及すれば、土地を耕し、農業生産を支えるうえでも役立ったでしょう。
当時の日本列島では、鉄素材の確保に朝鮮半島との交流が重要な役割を果たしていたと考えられています。
もし鉄や新しい技術を安定して手に入れることができれば、社会のさまざまな仕事に影響を与えたはずです。
ここで私は疑問を持ちます。
倭王たちが海外との関係を重視した背景には、政治的な権威だけではなく、物資や技術を確保する目的もあったのではないでしょうか。
例えば、朝鮮半島との関係が悪化すれば、必要な鉄素材の入手が難しくなった可能性があります。
一方、交流が活発になれば、新しい道具や技術を取り入れる機会が増えたかもしれません。
もちろん、倭の五王が中国へ使者を送った直接の目的が、鉄の確保だったと示す記録があるわけではありません。
それでも、政治的な関係とものづくりの技術は、必ずしも別々の問題ではなかったと思います。
国を治めるためにも、道具をつくるためにも、必要な材料や技術を手に入れることは重要だったはずです。
外から来た技術は、誰が使ったのか
古墳時代には、朝鮮半島などから新しい技術が伝わりました。
須恵器の製作。
金属加工。
機織り。
土木や建築に関する技術。
こうした技術の広がりには、実際に仕事をする人々の移動も関わっていたと考えられています。
しかし、新しい技術が伝わったからといって、それがすぐに社会全体へ広がるとは限りません。
例えば、須恵器をつくるためには、高温で焼成できる窯が必要です。
窯を築く知識が必要です。
適した粘土を選び、成形し、乾燥させ、焼き上げるための経験も必要です。
完成した須恵器を一つ手に入れたとしても、それだけで同じものがつくれるわけではありません。
技術を持つ人がいて、実際に製作し、経験を積み重ねる必要があります。
さらに、その技術を受け入れる土地の人々も必要だったでしょう。
材料を集める人。
作業を手伝う人。
完成した製品を運ぶ人。
そして、その製品を使う人々。
新しいものづくりが定着するには、さまざまな人々の協力が必要です。
ここで、私は一つのことを考えます。
海外から技術を持った人々がやって来たとしても、その人々だけですべてができたわけではないはずです。
もともとその土地にいた人々の経験や知識と結びつくことで、新しい技術が広がっていったのではないでしょうか。
技術は、ただ伝わるだけではなく、使う人々によって受け継がれ、変化していくものです。
古代の海外交流も、単に外国の文化を取り入れたというだけではなく、人々が互いに学び、新しいものをつくっていく過程だったのかもしれません。
中国の称号と国内の王権は、どうつながったのか
もう一度、倭の五王の称号に戻ってみたいと思います。
倭王たちは、中国の皇帝から安東将軍などの称号を与えられました。
さらに、朝鮮半島の諸地域に関する軍事的な権限を求めています。
しかし、そうした称号が、倭国の国内でどのように受け止められていたのかは、十分に分かっていません。
例えば、各地の有力者たちは、中国の皇帝が与えた称号をどれほど重視していたのでしょうか。
中国の皇帝から認められた王だから従う、という考え方があったのでしょうか。
それとも、国内では別の理由によって王の権威が認められていたのでしょうか。
私は、ここが重要だと思います。
国内の政治的な権威と、海外から認められた外交上の地位は、必ずしも同じものではありません。
倭王が中国から高い称号を与えられても、それだけで国内のすべての有力者が従ったとは限らないでしょう。
一方、海外との外交を担うことができる王として、国内での地位を強めることにつながった可能性もあります。
もしそうなら、倭の五王が中国へ使者を送り続けた理由には、海外との関係だけでなく、国内の王権を維持するという目的もあったのかもしれません。
ただし、これは一つの可能性です。
中国側の文献だけから、倭国の内部で何が起こっていたのかをすべて知ることはできません。
それでも、外国との外交が、国内の社会にも影響を与えるという視点は、古代の王権を考えるうえで大切ではないでしょうか。
倭王武と雄略天皇は同じ人物なのか
倭の五王の中でも、武は雄略天皇に当たるという説が広く知られています。
この考え方を考えるうえで、興味深い資料があります。
埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣です。
この鉄剣には、115文字の銘文が刻まれていました。
その中には、獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)と読まれる名前が登場します。
また、熊本県の江田船山古墳から出土した大刀の銘文にも、ワカタケル大王と関係すると考えられる名前が記されています。
遠く離れた関東と九州に、共通する大王の名前が残されていた可能性があるのです。
ワカタケル大王は、雄略天皇に当たるという考え方が有力です。
そして、倭王武も雄略天皇に比定されることが多くあります。
もし、これらが同じ人物だったとしたら。
中国の歴史書に登場する倭王武と、日本列島の古墳から出土した鉄剣の銘文が、一人の大王につながることになります。
しかし、ここでも慎重に考えたいと思います。
文字に残された名前の解釈と、それがどの人物を指すのかという問題は、分けて考える必要があります。
それでも、5世紀の日本列島に、広い地域で名前を知られる大王が存在していた可能性を示す資料として、非常に興味深いものです。
ここで私は、別の疑問を持ちます。
大王の名前が遠く離れた古墳の鉄剣に刻まれていたことは、どのような関係を表しているのでしょうか。
直接支配していた証なのでしょうか。
それとも、大王と地域の有力者との特別な関係を示すものだったのでしょうか。
同じ名前があるということだけで、その関係を一つに決めることはできません。
しかし、そこに当時の人々のつながりを考える手がかりが残されているように思います。
中国へ行った使者たちは、何を見て帰ってきたのか
ここで、倭の五王の物語を、王ではなく使者の立場から考えてみたいと思います。
倭王たちは、中国へ使者を送りました。
しかし、実際に海を渡り、中国の王朝を訪れたのは、使者として選ばれた人々です。
彼らは、どのような旅をしたのでしょうか。
当時の船は、現在のような大型船とは異なります。
天候や海流に左右されることも多かったはずです。
海を越え、中国の港へ到着する。
そこからさらに、王朝の都へ向かう。
言葉や習慣の異なる人々と接し、皇帝の宮廷で外交を行う。
簡単な仕事ではなかったでしょう。
そして、使者たちは中国で何を見たのでしょうか。
大きな都市。
整備された道路。
宮殿。
文字を使った行政。
さまざまな工芸品や道具。
日本列島ではまだ一般的ではなかった技術や社会の仕組みに触れた可能性もあります。
もちろん、使者たちが具体的に何を見聞きし、何を持ち帰ったのかは、記録から十分に知ることができません。
それでも、海外へ渡った人々が、新しい知識や経験を持って帰ってきた可能性は考えられます。
もしそうなら、遣使の意味は、王が称号を受け取ることだけではなかったのかもしれません。
人が移動すれば、知識も移動します。
異なる文化に触れれば、それまで当たり前だと思っていた方法を見直すこともできます。
私は、倭の五王の外交にも、そのような人々の経験が積み重なっていたのではないかと想像します。
なぜ倭の五王の遣使は途絶えたのか
倭の五王の記録をたどると、5世紀後半には倭王武の遣使が登場します。
そして、479年の南斉、502年の梁の記録にも、武に関係する称号の授与が記されています。
ただし、これらの記録が、その年に倭国から新たな使者が派遣されたことを示すとは限りません。
その後、中国側の文献からは、倭の五王のような遣使の記録が見えなくなっていきます。
次に大きく注目されるのは、7世紀初頭の遣隋使です。
なぜ、倭国と中国王朝の外交関係には、このような変化が生まれたのでしょうか。
中国大陸では王朝が交代していました。
朝鮮半島でも、政治的な関係が変化していました。
一方、日本列島の内部でも、王権の仕組みや有力氏族の関係が変わっていったと考えられます。
もし、中国の称号を必要とする理由そのものが変わっていたとしたら。
倭王たちが以前のように使者を送り続ける必要も、変化したのかもしれません。
あるいは、外交の記録が残されていないだけで、民間の交流や技術の移動は続いていた可能性もあります。
外交使節の記録が途絶えたことと、人々の交流が完全になくなったことは、同じではありません。
ここにも、文献だけでは分からない歴史が残されているように思います。
王が求めたのは、権威だったのか、それとも実利だったのか
最後に、もう一度、倭の五王が中国へ使者を送り続けた理由を考えてみたいと思います。
中国の皇帝から称号を与えられる。
その行為は、現代の感覚では、外国の権威に頼っているように見えるかもしれません。
しかし、当時の東アジアには、現在とは異なる国際関係が存在していました。
その中で、倭国の王たちは、自分たちの立場を守り、影響力を広げようとしていた可能性があります。
朝鮮半島との政治的な関係を有利にしたかったのかもしれません。
国内の有力者に対して、自分たちの権威を示したかったのかもしれません。
あるいは、鉄や新しい技術、物資の流通を安定させることも、重要な課題だったのではないでしょうか。
私は、政治的な権威と実際の利益を、完全に分けて考える必要はないと思います。
どれほど強い王であっても、必要な材料や技術が手に入らなければ、社会を維持することは難しくなります。
農具がなければ、土地を耕すことはできません。
工具がなければ、建物や船をつくることも難しくなります。
そして、海外との関係が悪化すれば、人や物の移動にも影響が出たかもしれません。
古代の王たちも、そうした現実的な問題に向き合っていたのではないでしょうか。
ここで、第5回の三輪山と大田田根子の物語を思い出します。
王が神を祀るために、特定の血筋を持つ人物を必要としたという伝承です。
そこには、王の権力だけでは動かせない社会の仕組みが描かれていました。
今回の倭の五王も、少し違った形で、王の力だけでは解決できない問題に向き合っていたのかもしれません。
国内では、地域の有力者や祭祀を担う人々との関係が必要だった。
海外では、中国や朝鮮半島の国々との関係が必要だった。
そして、その両方を支えていたのは、実際に働き、物をつくり、海を渡り、人々をつないでいた人たちだったのではないでしょうか。
王がどれほど大きな権威を持っていたとしても、その社会を動かしていたのは、王一人ではなかった。
倭の五王の記録は、そのような古代日本の姿を考える手がかりにもなると思います。
中国の歴史書に残されたのは、王の名前と称号、外交の記録です。
しかし、その背後には、海を渡った使者たちがいました。
船をつくった人々がいました。
必要な物資を集めた人々がいました。
海外から伝わった技術を学び、実際の仕事に生かした人々もいたでしょう。
その一人ひとりの名前は、ほとんど残されていません。
それでも、彼らが積み重ねてきた仕事や経験が、古代日本の社会を変えていったのかもしれません。
歴史書に記された王の名前だけを追うのではなく、その王たちが何を必要とし、誰の力によって社会を動かしていたのかを考えてみる。
そうすることで、倭の五王の遣使も、単なる外交の記録とは違った姿で見えてくるように思います。
そして、この時代の王権と地域社会の関係を考えるうえで、もう一つ興味深い手がかりがあります。
埼玉県の稲荷山古墳と、熊本県の江田船山古墳から出土した鉄剣・鉄刀の銘文です。
遠く離れた地域に、なぜ同じ大王の名前が刻まれていたのでしょうか。
次回は、この二つの古墳に残された文字から、古代の大王と地方の有力者、そして技術者たちの関係を探ってみたいと思います。