百舌鳥・古市古墳群の謎|なぜ巨大古墳の中心は、大和から河内へ移ったのか【前編】
大阪府堺市から羽曳野市、藤井寺市にかけて、日本列島でも最大級の古墳が数多く残されています。
百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)です。
その中でも特に有名なのが、堺市にある大仙陵古墳です。
仁徳天皇陵古墳とも呼ばれ、墳丘の長さは約486メートル。
エジプトのピラミッドと並んで、世界的にも巨大な墳墓として知られています。
そして、羽曳野市には、応神天皇陵古墳として知られる誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)があります。
こちらも墳丘長約425メートルという巨大な前方後円墳です。
こうした古墳が築かれたと考えられているのは、主に4世紀後半から5世紀にかけての時代です。
ここで、一つの疑問が生まれます。
それ以前の巨大古墳は、奈良盆地の大和に多く築かれていました。
箸墓古墳。
西殿塚古墳。
行燈山古墳。
渋谷向山古墳。
いずれも、古代の王権を考えるうえで重要な古墳です。
ところが、時代が進むと、大阪平野の河内に、さらに巨大な古墳が築かれるようになります。
なぜ、巨大な墓を築く中心が、大和から河内へ移っていったように見えるのでしょうか。
王が住む場所が変わったのでしょうか。
政治の中心が移ったのでしょうか。
それとも、古代日本の社会そのものに、大きな変化が起こっていたのでしょうか。
前回の歴史探訪では、前方後円墳が日本各地へ広がった理由について考えました。
今回は、その中でも特に巨大な百舌鳥・古市古墳群から、大和と河内の関係、海を越えた交流、そして古代のものづくりと王権の変化を探ってみたいと思います。
巨大古墳の中心は、本当に移ったのか
古墳時代の前半、大和盆地には大規模な前方後円墳が築かれました。
その代表的なものが、箸墓古墳です。
全長約280メートルという巨大な墳丘は、当時の社会に大きな変化が起こっていたことを考える手がかりになります。
そして、4世紀には奈良盆地東南部の大和古墳群や柳本古墳群などに、大規模な古墳が築かれました。
ところが、5世紀頃になると、百舌鳥・古市古墳群に代表される巨大古墳が大阪平野で目立つようになります。
ここで注意したいことがあります。
古墳が築かれる場所が変わったように見えるからといって、政治の中心まで完全に移動したとは限りません。
王の居住地と、王の墓が築かれる場所は、必ずしも同じである必要はないからです。
また、大和に巨大古墳が築かれなくなったわけでもありません。
それでも、河内に非常に大きな古墳が集中するようになったことは興味深い変化です。
私は、ここで墓の場所だけではなく、なぜ河内という土地が、巨大古墳を築く場所として選ばれたのかを考えたいと思います。
そこには、単なる王の好みでは説明できない理由があったのではないでしょうか。
河内は、海と大和をつなぐ土地だった
現在の大阪平野には、多くの住宅や工場、道路が広がっています。
しかし、古代の大阪平野は、今とは異なる地形をしていました。
現在よりも海や湖沼、河川の影響が大きく、河内には広い低湿地や水域が存在していました。
古代の河内湖と呼ばれる水域も、その一つです。
ただし、河内湖の範囲や海とのつながり方は、時代によって変化しており、現在の地図にそのまま当てはめることはできません。
それでも、大阪湾から河川や水路を利用して内陸へ進む交通が、古代の人々にとって重要だったと考えられます。
そして、その先には大和盆地がありました。
つまり、河内は海と大和を結ぶ交通の要所になり得る場所だったのです。
ここで、ものづくりの視点から考えてみます。
大量の物資を運ぶ場合、陸上だけで運搬するのと、水路を利用するのとでは、必要な労力が大きく異なります。
特に重い材料や大量の荷物を運ぶ場合、水上交通には大きな利点があります。
古代の人々も、木材や石材、食料などを運ぶために、河川や海を利用していたでしょう。
もし河内が、大和と各地を結ぶ物資の集積地として重要になっていたとしたら。
その土地の価値は、単に農耕に適しているかどうかだけでは決まらなかったはずです。
人と物が集まる場所は、やがて技術や情報が集まる場所にもなります。
私は、河内の重要性を考えるうえで、この点が気になります。
海を越えてやって来た人々
古墳時代の日本列島は、海によって外の世界から切り離されていたわけではありません。
朝鮮半島や中国大陸との交流があり、さまざまな物資や技術が伝わっていました。
鉄。
新しい工具。
土器の製作技術。
建築や土木に関する知識。
こうした技術が、どのような経路で、いつ、誰によって伝えられたのかについては、さまざまな研究が行われています。
特に5世紀頃には、朝鮮半島との交流が、ものづくりの技術に大きな影響を与えたと考えられています。
例えば、須恵器です。
須恵器は、窯を使い、高温で焼かれた硬質の土器です。
それまでの土師器とは異なる技術が必要でした。
窯の構造。
火の流れ。
温度の管理。
材料となる粘土の選び方。
そして、製品を安定して焼き上げるための経験。
こうした技術は、完成した土器を見るだけで簡単に身につくものではありません。
実際に窯をつくり、火を扱う人々の知識が必要です。
そのため、須恵器の技術が広がった背景には、朝鮮半島から渡来した技術者たちの存在が考えられています。
そして、河内や和泉には、後に大規模な須恵器生産地が形成されました。
ここで、第5回の大田田根子の伝承を思い出します。
大田田根子が見つかったとされる河内の陶邑。
その地名と、後の時代に和泉で発展した陶邑窯跡群を、直接同じ歴史として結びつけることはできません。
しかし、大阪南部という地域に、古い信仰の伝承と、大規模なものづくりの歴史が重なっていることは興味深いものです。
巨大古墳をつくるには、何が必要だったのか
大仙陵古墳の墳丘長は約486メートル。
これほど大きな古墳を築くには、膨大な量の土を動かさなければなりません。
しかし、巨大古墳の建設は、単に土を積み上げる仕事ではありません。
まず、どの場所につくるのかを決める必要があります。
地盤の状態を調べ、墳丘の向きや大きさを考えます。
そして、必要な土地を確保し、周囲の地形を整えなければなりません。
土を掘る。
運ぶ。
積み上げる。
斜面を整える。
石を集める。
埴輪を製作する。
さらに、周囲には濠を巡らせる場合もあります。
これらの仕事には、それぞれ異なる知識や経験が必要だったはずです。
ここで、私は疑問を持ちます。
これほど巨大な古墳を築く技術は、どこで生まれ、誰が受け継いでいたのでしょうか。
大和で巨大古墳を築いた技術者たちが、河内でも仕事をしていた可能性はないのでしょうか。
あるいは、河内の人々が独自に技術を発展させたのでしょうか。
外から伝わった新しい道具や工法が、建設技術に影響したことも考えられます。
もちろん、どの古墳に、どの技術者集団が関わったのかを正確に知ることは困難です。
それでも、大規模な古墳が継続して築かれた背景には、経験を積み重ねてきた人々の存在があったはずです。
巨大古墳は、王の権威を示すものとして説明されることがあります。
しかし、その巨大さを実際に形にしたのは、現場で働いた人々の技術だったのです。