前方後円墳の謎|なぜ日本各地の豪族は、同じ形の巨大な墓をつくったのか【前編】
奈良県桜井市にある箸墓古墳。
全長約280メートルという巨大な前方後円墳は、古代日本の成立を考えるうえで重要な存在です。
そして、この箸墓古墳が築かれたと考えられる3世紀以降、日本列島には同じような形の古墳が次々と現れるようになります。
近畿地方だけではありません。
九州。
中国地方。
四国。
東海。
北陸。
そして、関東や東北地方にまで。
遠く離れた地域に、前方後円墳という共通した形の墓が築かれていったのです。
ここで、一つの疑問が生まれます。
なぜ、それぞれ異なる文化や歴史を持つ地域の人々が、同じような形の墓をつくるようになったのでしょうか。
大和の王が命令したのでしょうか。
それとも、各地の有力者たちが、自らその形を取り入れたのでしょうか。
あるいは、私たちがまだ十分に知らない、古代社会のつながりがあったのでしょうか。
前回の歴史探訪では、箸墓古墳と倭迹迹日百襲姫命の伝承から、神を祀る女性と古代王権の関係を考えました。
今回は、日本各地に広がった前方後円墳から、古代の地域社会と大和の王権が、どのように結びついていったのかを探ってみたいと思います。
なぜ前方と後円なのか
前方後円墳は、上から見ると、円形の部分と四角形に近い部分が組み合わさった独特な形をしています。
現在では、円形の部分を後円部、もう一方を前方部と呼んでいます。
一般的には、後円部に埋葬施設が設けられている例が多く見られます。
しかし、前方部がなぜ必要だったのかについては、さまざまな考え方があります。
埋葬に伴う儀式を行う場所だったのでしょうか。
墓へ向かうための通路や、祭祀のための空間として発達したのでしょうか。
あるいは、それ以前から各地に存在していた墳墓の形が組み合わされ、新しい形になったのでしょうか。
弥生時代には、地域によって異なる形の墓が築かれていました。
円形の墓。
方形の墓。
周囲に溝を巡らせた墓。
さらに、岡山県の楯築墳丘墓のように、独特な形と大きな規模を持つ墳墓も存在しています。
こうした古い墳墓の伝統が、前方後円墳の成立に影響したという考え方もあります。
しかし、その成立過程がすべて明らかになっているわけではありません。
私は、ここで形そのものに注目したいと思います。
もし単に大きな墓をつくるだけなら、円形でも四角形でもよかったはずです。
それなのに、あえて複雑な形を採用し、後の時代には各地で同様の形がつくられるようになりました。
そこには、単なる墓の形を超えた、何らかの意味があったのではないでしょうか。
各地には、それぞれの墓の文化があった
前方後円墳が広がる以前、日本列島の墓の形は決して一様ではありませんでした。
例えば、山陰地方には四隅突出型墳丘墓と呼ばれる独特な墓がありました。
四角形の墳丘の四隅が外側へ張り出した形をしています。
一方、吉備地方には、楯築墳丘墓のような大きな墳丘墓が築かれています。
九州にも、それぞれの地域の有力者が築いたと考えられる墳墓がありました。
つまり、古代の人々は、最初から同じ形の墓をつくっていたわけではないのです。
地域ごとに、亡くなった人を送る方法がありました。
祖先を祀る習慣がありました。
そして、長い時間をかけて受け継がれてきた文化があったはずです。
それにもかかわらず、古墳時代になると、前方後円墳という共通した形が広い地域に現れるようになります。
ここが興味深いところです。
なぜ、それまで大切にしてきた地域独自の墓の形から、新しい形へと変化していったのでしょうか。
大和の文化が優れていたからでしょうか。
私は、それだけで説明するのは難しいと思います。
墓は、単なる建造物ではありません。
亡くなった人を送り、祖先を記憶し、地域の人々が共有する意味を持つ場所でもあったでしょう。
その形を変えることには、何らかの理由が必要だったのではないでしょうか。
大和の王権が命令したのか
前方後円墳の広がりについては、ヤマト王権との関係を重視する考え方があります。
大和を中心とした政治的な勢力が力を持ち、その影響が各地へ広がったというものです。
共通する墓の形は、王権と地域の有力者との関係を示すものだったのかもしれません。
しかし、ここで私は疑問を持ちます。
大和の王は、本当に遠く離れた地域の豪族にまで、墓の形を命令できたのでしょうか。
現在のような通信手段はありません。
道路や交通網も、現代とは大きく異なります。
遠方へ移動するには、山を越え、川を渡り、ときには海を進む必要がありました。
そのような時代に、大和の王が日本各地の地域社会を、直接支配していたと考えてよいのでしょうか。
もちろん、王権の影響力が広がっていた可能性はあります。
しかし、同じ形の墓が存在することだけで、そこが大和の直接支配下にあったと判断することはできません。
例えば、地域の有力者が大和の勢力と協力関係を結び、その関係を示すために前方後円墳を築いた可能性もあります。
あるいは、交易や婚姻、祭祀などを通じて、新しい墓の文化が広がったことも考えられます。
命令によって広がったのか。
人々が自ら取り入れたのか。
この違いは、古代日本の成り立ちを考えるうえで重要だと思います。
墓の形は、仲間であることの証だったのか
ここで、別の可能性を考えてみたいと思います。
もし前方後円墳が、ある政治的なつながりを示す共通の形だったとしたら。
同じ形の墓を築くことは、単に亡くなった人を葬る行為ではなく、自分たちがどのような関係に属しているのかを示す意味も持っていたのかもしれません。
例えば、各地の有力者たちが互いに協力する仕組みをつくっていたとします。
食料や道具を交換する。
必要なときに人手を出す。
争いが起これば協力する。
あるいは、共通する祭祀を行う。
そのような関係の中で、特定の形を持つ墓が、共通の権威や立場を示すものになっていった可能性も考えられます。
もちろん、前方後円墳がそのような意味を持っていたと直接証明することはできません。
しかし、遠く離れた地域に共通する形が広がったことを考えると、人々の間に何らかの共通認識が存在していたのではないかと思えてきます。
そして、それは必ずしも、一人の王がすべてを決める仕組みだったとは限りません。
異なる地域の有力者たちが、互いの存在を認めながら、共通する仕組みをつくっていった可能性もあるのではないでしょうか。
同じ形でも、大きさは違っていた
前方後円墳には、もう一つ興味深い特徴があります。
それは、同じ形であっても、古墳の規模には大きな違いがあることです。
例えば、大阪府堺市にある大仙陵古墳は、墳丘長が約486メートルに達する巨大な前方後円墳です。
一方、地方には、それよりもはるかに小さな前方後円墳も数多く存在しています。
なぜ、同じ形を採用しながら、大きさに差があったのでしょうか。
埋葬された人物の権力の違いでしょうか。
動員できる人々の数でしょうか。
あるいは、王権との関係や、地域社会の中での役割が反映されていたのでしょうか。
古墳の大きさと政治的な地位を結びつける考え方はあります。
しかし、墓が大きいからといって、その人物がどれほどの権力を持っていたのかを正確に知ることはできません。
例えば、豊かな地域であれば、多くの食料や労働力を用意できたかもしれません。
反対に、小さな地域であっても、広い範囲の人々をまとめる役割を担っていた可能性があります。
また、古墳を築く目的そのものが、地域や時代によって異なっていたことも考えられます。
同じ形でありながら、大きさには違いがある。
そこには、共通する文化と、それぞれの地域の事情が重なっているように感じられます。