日高見国は、そんな世界だったのか
2014.10.03
日高見国という名前を追っていくと、一つの疑問が残ります。
その土地に住んでいた人たちは、自分たちの国を本当に「日高見国」と呼んでいたのでしょうか。
私は、そこから考えたいと思います。
『常陸国風土記』の逸文には、信太郡の由来を語る中で、日高見国という名前が出てきます。
さらに、黒坂命が陸奥の蝦夷を討ち、その帰路で亡くなったという話も残されています。
ここには、すでに「東の人々」と「それを討つ側」という構図があります。
「蝦夷を討った」。
記録では短い言葉です。
でも、討たれた側にも家があり、家族があり、土地がありました。
魚を捕り、田畑を耕し、舟を出し、子どもを育てていた。
そこへ軍が来る。
後の記録では、それが「征討」や「平定」と書かれる。
でも、その土地に住む側から見れば、
攻め込まれた
ということになります。
私は、日高見国を一つの巨大国家だったと最初から決める必要はないと思っています。
むしろ、
ヤマトの支配がまだ十分に及んでいない東の世界
として見る方が、残されたものとつながりやすい。
水辺に暮らす人。
山で暮らす人。
交易する人。
農業をする人。
それぞれ別の土地を持ちながら、川や海や山の道でつながっていた。
その広い世界を、外から来た側がまとめて「日高見」と呼んだ可能性もあります。
だから日高見国は、地図に一本の国境線を引くだけでは見えてこない。
人の移動を見る。
水の道を見る。
神社を見る。
墓を見る。
古墳を見る。
そして、
どちらの側が、その土地へ入っていったのか
を見る。
そこから、日高見と呼ばれた世界の輪郭が少しずつ見えてくるのではないでしょうか。
新着記事
人気記事
カテゴリー
アーカイブ