誰がこの水の道を押さえようとしたのか
情報も集まる。
何より、水の道を押さえれば、その周囲で暮らす人々の動きまで見えてきます。
だから鹿島と香取は重要だったのではないでしょうか。
実際、後の時代になると鹿島郡と香取郡は「神郡」という特別な地域になります。
鹿島郡では、鹿島神宮のすぐ南に郡家、つまり役所が置かれました。
発掘調査では、税として集められた米を保管する倉庫群や、政務を行った建物まで見つかっています。
ここで景色が一気に変わります。
神社だけではない。
役所がある。
税が集まる。
倉庫がある。
人が管理される。
物が集められる。
つまり鹿島は、祈る場所であると同時に、国家が人と物を管理する場所にもなっていった。
香取も同じです。
千葉県は、香取神宮について、古代には国家鎮護の神としてヤマト王権の東国経営の
一翼を担ったと説明しています。
「東国経営」
ずいぶん穏やかな言葉です。
でも、その土地に暮らしていた人から見れば、景色は違ったかもしれません。
自分たちが使っていた水の道。
自分たちが祈っていた場所。
自分たちが暮らしていた土地。
そこに役所ができる。
税を納める仕組みができる。
中央の制度が入ってくる。
これは単なる行政整理ではありません。
土地の支配の仕組みが変わるということです。
そして鹿島と香取の神は、どちらも武の神として強く語られるようになります。
鹿島の武甕槌。
香取の経津主。
どちらも「国を平定する」側に置かれた神です。
ここで私は引っかかります。
なぜ、この二柱が水の交通の要所に並んでいるのでしょう。
たまたまでしょうか。
それとも、水の道を押さえることと東国を支配することが、ほとんど同じ意味
だったのでしょうか。
もし陸だけで東へ進もうとすれば、大変です。
森がある。
湿地がある。
川がある。
荷物も運びにくい。
でも舟なら、大量の物資を運べる。
兵も運べる。
食料も運べる。
だから、鹿島・香取という二つの地点を押さえる意味は大きい。
しかも、その先には霞ヶ浦があります。
さらに北へ、東へ、水の道は続く。
その向こうには、後に日高見と呼ばれる人々の世界があった。
そう考えると、鹿島・香取は「東国の端」ではありません。
むしろ、
東へ入っていく入口
だった可能性があります。
ここで要石を思い出します。
鹿島と香取。
大きな水域を挟んで、二つの要石がある。
地震を鎮める。
土地を守る。
人々がこの場所を離れなかった証のようにも見える。
そこへ後から、武神の物語と国家の制度が重なる。
私は、この順番が気になります。
最初から武神がいて、周囲に人が集まったのか。
それとも、
すでに豊かな土地と水の道があり、そこを押さえるために武神の
意味が強くなっていったのか。
もし後者なら、歴史の見え方は大きく変わります。
鹿島や香取は、
「東国を守る神社」
だっただけではない。
東国へ進むために、どうしても押さえたかった場所
だったのかもしれません。
では、その先にいた人々はどうしたのでしょう。
素直に従ったのか。
逃げたのか。
戦ったのか。
取り込まれたのか。
おそらく一つではありません。
支配する側にも階層があり、支配される側にもさまざまな人が
いたはずです。
そして普通の人たちは、政治とは関係なく、
魚を捕り、
田を耕し、
舟を出し、
家族を養っていた。
そこへ突然、制度が入ってくる。
税を納めろと言われる。
人を出せと言われる。
土地の使い方が変わる。
祭る神まで変わっていく。
歴史書では数行で終わることでも、そこで暮らしていた人にとっては
人生そのものです。
そして、この流れをさらに北へ追うと、いずれアテルイやモレの時代に
つながっていきます。
日高見と呼ばれた東の世界。
そこへ何度も中央側の軍が送られる。
鹿島・香取の武神が、後に征夷と深く結びついていくことも知られています。
すると、鹿島・香取から始まった水の道は、
単なる交易路ではなかったのかもしれません。
人を結ぶ道であり、
物を運ぶ道であり、
やがて支配する側にとっては、
東へ進むための道
にもなった。
水は人を豊かにしました。
同時に、その豊かさゆえに狙われた。
私は、そこにこの土地の歴史の一つの芯があるように思います。
豊かだったから人が集まった。
人が集まったから祈りが生まれた。
豊かだったから土地を捨てなかった。
そして、
豊かだったから、外からも欲しがられた。
次は、その「東へ進む道」の先で、誰が抵抗し、誰が取り込まれ、誰が歴史から
名前を消していったのか。
日高見国とアテルイへ、もう一歩近づいてみたいと思います。