要石は、何を守っていたのか【前編】
地震があっても、人々が鹿島・香取を離れなかった理由
鹿島神宮と香取神宮には、どちらにも「要石」があります。
地中にいる大鯰を押さえ、地震を鎮める石だと伝えられてきました。
しかも二つは別々の伝説ではありません。
香取神宮では凸形、鹿島神宮では凹形の石が地表に現れ、二柱の神が
大鯰の頭と尾を押さえていると伝えられています。
私はここで、少し違うことを考えます。
なぜ、二つ必要だったのでしょう。
鹿島だけを守るなら、鹿島に一つあればいい。
香取だけなら、香取に一つあればいい。
ところが二つの石は、大きな水の世界を挟むように存在しています。
昔、このあたりには現在の北浦や霞ヶ浦へ続く広大な水域がありました。
舟が行き交い、人と物が動き、その沿岸には集落や古墳が集まっていました。
鹿嶋市の調査でも、この水域は水上交通だけでなく陸上交通との結節点で、
沿岸には集落や古墳群が集中していたことが分かっています。
『常陸国風土記』にも、鹿島の神へ舟を奉納した話が残されています。
ここには地震の怖さを知りながら、それでも離れなかった人々がいた。
なぜでしょう。
答えは案外単純なのかもしれません。
それでも、ここに住む方がよかった。
魚が捕れる。
舟が使える。
人が来る。
物が来る。
情報が来る。
水辺から少し上がれば台地があり、そこには住む場所もある。
災害のない土地だったから人が集まったのではありません。
危険を上回るほど豊かな土地だったから、人が残った。
そう考えると、要石の見え方も変わります。
地震が怖ければ、土地を捨てることもできます。
それでも人は、石に大地を鎮めてもらおうとした。
つまり要石には、
「地震が起きませんように」
だけではなく、
「私たちは、ここで暮らし続けたい」
という願いまで込められていたのではないでしょうか。
そして鹿島と香取の間にあるのは、ただの水ではありません。
舟が行き、人が渡り、物資が交換されることで成り立つ一つの生活圏です。
片岸だけ栄えても、この世界は成立しません。
だから私は、二つの要石を見ていると、
鹿島と香取がそれぞれ自分の土地を守っているのではなく、その間に広がる水の国
そのものを両側から守っているように見えます。
そして、この水の国を西へ辿れば印旛沼があります。
その周囲には麻賀多神社が点在し、さらに古墳や古い集落の痕跡が残っています。
反対に北へ目を向けると、もう一つ気になる名前が現れます。
日高見国。
後世に引用された『常陸国風土記』の逸文には、現在の茨城県南部にあたる
信太郡について、「この地は、もと日高見国であった」
とする記録が残っています。
日高見国をどこまでの範囲と見るかについては諸説ありますが、少なくとも
「日高見」という名前と常陸の土地が結びつけられていた記録は残っています。
ここで話が変わってきます。
鹿島、香取、息栖、麻賀多。
それぞれの神社だけを眺めていては見えません。
大きな水域を中心に人々が暮らし、舟でつながり、そのさらに北や東には、後に
「日高見」と呼ばれる世界が語られている。
では、
この土地は、中央から人が来て初めて開かれたのでしょうか。
そうではないはずです。
人はすでにいた。
暮らしがあった。
舟があった。
祈りがあった。
そこへ、後から別の力が入ってきた。
鹿島と香取が「国を平定する神」を祀る場所になっていくことと、それ以前から
ここにあった水の世界。
この二つを重ねたところから、次の話が始まります。
誰が、この豊かな東の国を欲しがったのでしょう。