印旛には、本当に大きな地域勢力がいたのか
印旛国造という名前を見ていると、どうしても「中央から任命された地方の役人」という印象を持ちやすいです。
でも、その前に考えたいことがあります。
そもそも中央が誰かを「国造」にするためには、その地域に人々をまとめる力を持った有力者がいなければ成り立ちません。
つまり国造制度ができる前から、印旛には印旛なりの地域社会があったはずです。
そのことを考えるうえで、古墳はかなり重要です。
印旛沼の北東岸には龍角寺古墳群があります。6世紀から7世紀にかけて築かれた大規模な古墳群で、現在でも多くの墳墓が残っています。そこには巨大な方墳である岩屋古墳もあります。千葉県庁
印旛沼西岸にも道作古墳群があり、前方後円墳7基、円墳14基、方墳1基というまとまりを持っています。中でも1号墳は全長46メートルで、この地域では大きな規模を持つ古墳です。印西市公式サイト
一つの巨大古墳だけなら、一人の強い人物を想像することもできます。
しかし複数の古墳群が、印旛沼の周囲に長い期間つくられている。
これは、一代限りの権力者ではありません。
何世代にもわたり、有力者層が存在したということです。
その人々は、何を支配していたのでしょう。
土地だけではなかったと思います。
水路。
田畑。
漁場。
人の移動。
物の交換。
祭祀。
それらをまとめる力がなければ、多くの人を動員して大きな墓を造ることは難しいでしょう。
こうして見ると、「印旛国造」という名前が突然現れたのではなく、その前から存在した地域社会の上に、新しい政治制度が重なったと考える方が自然に見えてきます。
麻賀多神社の近くに伊都許利命の記憶が残ることも、この流れの中で見ると意味が変わります。
一人の伝説上の人物だけを探すのではありません。
その人物を生み出した地域社会そのものを見る。
そうすると、印旛という土地がかなり大きく見えてきます。