仁徳天皇陵古墳は誰が造ったのか|巨大古墳を支えた無名の人々
堺市にある仁徳天皇陵古墳。
墳丘の長さは約486メートル。
写真で見ると、美しい鍵穴のような形をしています。
でも、地上に立つと形はほとんど分かりません。
ただ森が続いているように見えます。
では、この巨大なものを、重機のない時代にどうやって造ったのでしょう。
ここから少し、古墳の中へ入って考えてみます。
まず土が必要です。
仁徳天皇陵古墳について、堺市が紹介する試算では、盛られた土は約140万立方メートル。
運搬量に換算すると約200万立方メートルになるとされています。
現在の10トンダンプカーなら約27万台分です。
もちろん当時、ダンプカーはありません。
人が運びます。
籠や道具を使って、何度も何度も運びます。
それだけではありません。
墳丘の表面には大量の葺石。
さらに埴輪。
濠。
土を掘る人。
運ぶ人。
積む人。
石を集める人。
埴輪を焼く人。
工具を作る人。
そして、その人たちが食べる食料を作る人。
堺市が紹介している一つの試算では、延べ約680万人分の労働力が必要になり、ピーク時に1日2000人が働いたとしても15年以上かかる計算になります。
ただし、これは現代の条件から推定した試算で、実際の人数や工期が判明しているわけではありません。
むしろ、そこが面白いところです。
これほど大きな工事なのに、
誰が現場を指揮したのか。
どこから人が来たのか。
どうやって食料を供給したのか。
どこで工具を作ったのか。
まだ分からないことがたくさんあります。
堺市も、百舌鳥古墳群について「何人が参加し、どれくらいの月日で、どのように造ったのか」には多くの謎が残るとしています。
私たちは巨大古墳を見ると、どうしても埋葬された人物を考えます。
でも、一度視線を反対側へ向けてみます。
この古墳を造った側です。
毎日土を運んだ人がいた。
石を並べた人がいた。
埴輪を焼き続けた人がいた。
壊れた道具を直した人がいた。
食事を準備した人もいた。
そのほとんどの名前は残っていません。
けれど、その人たちの仕事だけは1600年近く残っています。
巨大古墳は、一人の権力者の力を示すものだと説明されます。
それも一つの見方です。
でも別の方向から見ると、これは何千、何万という人々の仕事を積み上げた巨大な共同作品にも見えてきます。
仁徳天皇陵古墳を本当に造ったのは誰なのか。
その問いの答えは、一人の名前ではないのかもしれません。