難波津と古代の物流|人と技術は川と港をどう動いたのか
大阪の街から、ビルも道路も消してみます。
残るのは、海と川です。
古代の人にとって、この水の道は今の高速道路に近い役割を持っていたのかもしれません。
大阪歴史博物館は、難波津について、古墳時代から奈良時代にかけて日本でも最も重要な港の一つとして『日本書紀』などに登場すると説明しています。
ただし、現在も難波津の正確な場所は確定していません。
ここがまず面白いところです。
日本を代表する古代港なのに、場所がまだ完全には分からない。
それでも難波では、5世紀の大規模な倉庫群が見つかっています。
さらに後には難波宮が造られました。
港。
倉庫。
宮殿。
この三つが同じ地域に集まっています。
偶然でしょうか。
港に船が着く。
船から荷物を降ろす。
一度倉庫へ入れる。
必要な場所へ運ぶ。
人も同じです。
大陸や朝鮮半島から来た使節。
技術者。
僧侶。
商いに関わる人。
さまざまな人が難波を通ったと考えられています。
では、その先はどうしたのでしょう。
飛鳥まではまだ遠い。
ここから先には川があり、道があります。
船で運べるところまで運び、そこから陸路へ移す。
あるいは川沿いを進む。
古代の物流は、水路だけ、陸路だけではなく、いくつもの手段をつないで成立していたのではないでしょうか。
物が動けば、技術も動きます。
須恵器。
鉄器。
布。
仏教文化。
建築技術。
そして、それを扱える人。
古代の大阪を考えるとき、「港町」という言葉だけでは少し足りません。
ここは、人と物と技術をいったん受け止め、次の場所へ送り出す巨大な玄関だったのではないでしょうか。
難波津の正確な場所は、まだ分かっていません。
それでも、地面から出てくる倉庫跡や土器を見ると、そこに大量の物と人が集まった気配だけは残っています。
古代の物流網を追いかけると、歴史の中心は宮殿だけではなく、港と川にもあったのではないか。
そんな景色が見えてきます。