竹内街道と古代の道|難波から飛鳥へ何が運ばれたのか
大阪から奈良へ向かうと、必ず山にぶつかります。
生駒。
金剛。
葛城。
二上山。
今ならトンネルや高速道路があります。
しかし古代にはありません。
それでも人は、大阪湾側と大和盆地を行き来していました。
その手がかりになるのが竹内街道です。
『日本書紀』推古天皇21年、613年の記事には、
「難波より京に至る大道を置く」
とあります。
大阪府は、この「大道」のルートと竹内街道・横大路が重なることから、日本最古の官道と呼ばれていると説明しています。
難波。
河内。
竹内峠。
大和。
そして飛鳥。
地図で追うと、一本の線が見えてきます。
でも、この道を歩いたのは誰だったのでしょう。
役人だけではありません。
大陸から来た使節。
僧侶。
技術者。
物を運ぶ人。
馬を扱う人。
おそらく多くの人が、この道を通ったはずです。
そして運ばれたのは、人だけではありません。
道具。
布。
食料。
金属。
仏教に関わる品々。
新しい技術や知識も、人と一緒に移動します。
ここで一つ気になることがあります。
道は、線を引けば完成するものではありません。
山を越える。
川を渡る。
崩れれば直す。
草木が茂れば整える。
荷物を運ぶ人が休む場所も必要です。
大阪府は、古代道路について、直線性だけでなく、側溝や土木工法、維持管理や補修も重要だったと紹介しています。
つまり古代の道にも、造る人と守る人がいたのです。
王が「道を造れ」と言っただけでは道は残りません。
実際に土を掘った人。
石を置いた人。
水を逃がした人。
補修した人。
そして毎日その道を歩いた人。
そうした無数の仕事があって初めて、難波と飛鳥はつながります。
古代の技術や文化が広がった理由を考えるとき、人だけを追っても答えは出ないのかもしれません。
その人が、どの道を通ったのか。
峠の向こうには何があったのか。
竹内街道を歩けば、今もその答えの一部が地形の中に残っています。