麻賀多神社は、なぜ印旛沼のまわりにだけ集まるのか
麻賀多神社という名前は、全国どこにでもある神社名ではありません。
千葉県の印旛地域、それも印旛沼の南側から東側にかけて集中しています。現在確認されている「麻賀多十八社」は、佐倉、成田、酒々井、富里、八千代という限られた地域に分布しています。台方の麻賀多神社は『延喜式』にも名が見える古社です。千葉県庁
現在の地図だけを見ると、それぞれの神社は別々の町に点在しているように見えます。
ところが、古代の水面を戻してみると印象が変わります。
現在の印旛沼は一つの湖ですが、縄文から弥生時代には、鹿島や銚子方面から内陸へ入り込んだ大きな内海の一部でした。さらに千年ほど前でも、霞ヶ浦、北浦、手賀沼、印旛沼などは、現在よりはるかに広い水域によってつながっていました。i Kouiki
つまり、現在の道路を消して昔の水を戻すと、麻賀多神社群は「内陸に散らばった神社」ではなくなります。
水辺に沿って並ぶ神社群に見えてきます。
ここで考えてみたいのは、なぜ同じ名前の神社が、この地域にだけまとまって残ったのかということです。
同じ神を祀る人々がいた。
同じ文化圏に属する人々がいた。
あるいは、水路を通じて日常的に往来する人々がいた。
一つの有力な集団が移動するたびに祭祀を分けていった可能性もあります。
もちろん、麻賀多神社がすべて同じ時代に成立したとは限りません。現在残る十八社を、そのまま古代の勢力図として扱うこともできません。
それでも、この分布には強い地域性があります。
しかも印旛沼を挟んだ反対側には、麻賀多とは別の神社群が見えてきます。
そこまで重ねると、「神社の分布」は信仰の話だけではなくなります。
誰がどこに住んでいたのか。
どの水域を使っていたのか。
どこまでが同じ仲間の世界だったのか。
神社の名前が、かつての地域社会の輪郭を薄く残している可能性があります。
現代の市町村境界ではなく、水から見た世界。
麻賀多神社群は、その入口なのかもしれません。