歴史に埋もれた二人の女性。山吹御前と葵御前が見た木曾義仲の運命【4】
遠い伊予の地に残された山吹御前の物語
木曾義仲の活動の中心は、信濃から北陸、そして京都へと広がっていった。
ところが、山吹御前の伝承を追っていくと、思いがけない土地にたどり着く。
現在の愛媛県伊予市である。
伊予市中山町佐礼谷には、山吹御前を祀る山吹神社がある。
そこには、義仲が討たれた後、山吹御前が伊予へ逃れてきたという伝承が残されている。
物語によれば、山吹御前は義仲の死後、従者たちとともに京都を離れ、船で瀬戸内海を渡った。
そして伊予の海岸に上陸し、山間部へ向かって進んでいったという。
しかし、病を抱えた山吹御前にとって、その旅は厳しいものだった。
次第に体力を失い、とうとう命を落としてしまったと伝えられている。
従者たちは彼女の身体を運び、山間の地に葬ったという。
その道筋に沿って、現在も伝承に結びついた地名が残されている。
「曳坂」。
「築楯」。
そして、衣装を替えた場所と伝えられる土地。
さらに、山吹御前の墓とされる五輪塔も残されている。
ここで私たちは、少し立ち止まって考えてみたい。
なぜ、木曾義仲と関係の深い山吹御前の伝承が、遠く離れた伊予の地に残っているのだろう。
義仲は短い期間ながら伊予守に任じられていた。
そのため、義仲との関係を頼って伊予へ落ち延びたという説明が伝承の中に登場する。
しかし、山吹御前が実際に伊予へ渡ったことを証明する同時代の記録は、確認されていない。
また、伊予守という官職にあったからといって、義仲が現地に安全な逃亡先を確保していたとは限らない。
その意味では、この伝承をそのまま史実として受け入れることはできない。
それでも、気になることがある。
山吹御前の伝承は、単に「この土地で亡くなった」という話だけでは終わっていない。
どこに上陸し、どの道を進み、どこで命を落とし、どこに葬られたのか。
旅の過程が、地名と結びつけられて語り継がれている。
もちろん、これらの地名が伝承より前から存在していたのか、伝承に合わせて説明されるようになったのかは、個別に調べなければ分からない。
しかし、もし古い地名や土地の記憶が残っているのであれば、そこから伝承が形成されてきた過程を考えられるかもしれない。
私たちが歴史探訪で大切にしたいのは、こうした部分である。
伝承があるから事実だと決めつけるのでもなく、記録がないから意味がないと切り捨てるのでもない。
なぜ、その土地で、その人物の物語が語られてきたのか。
その理由を考えていくことにも、歴史を探る面白さがある。
同じ山吹御前の墓が、ほかの土地にもある
さらに調べると、山吹御前に関係する墓や供養の伝承は、伊予だけではないことが分かる。
京都にも山吹御前の墓と伝えられる場所がある。
また、木曾義仲の生誕地とされる現在の埼玉県嵐山町には、山吹御前と関係する班渓寺がある。
この寺についても、山吹御前が義仲の菩提を弔ったという話や、山吹御前自身の墓に関する伝承が残されている。
一人の女性について、離れた土地に複数の墓や供養の場所がある。
では、どこが本当の墓なのだろう。
現時点では、一つに決めることはできない。
そもそも、墓と伝えられているものが、必ずしも遺骨を納めた場所とは限らない。
亡くなった人を偲ぶために、後の時代につくられた供養塔である可能性もある。
また、ある人物が複数の土地で信仰や伝承の対象になることは、日本の歴史では珍しいことではない。
そのため、墓が複数あるという事実だけで、その人物が各地を移動した証拠にはならない。
それでも、山吹御前という名前が、遠く離れた土地にまで残っていることは確かである。
これは何を意味するのだろう。
実在した女性の記憶が、人々の間で受け継がれてきたのか。
それとも、義仲の物語が広がる過程で、山吹御前という人物にも新たな人生が与えられていったのか。
私たちは、まだ答えを出せない。
ただ、ここには一つの興味深い対照がある。
巴御前は、物語の中で大きく描かれ、広く知られるようになった。
山吹御前は、短い記述しか残されていない一方で、いくつもの土地に生涯の伝承が残っている。
歴史の中で人間が生き続ける形は、一つではないのである。
三人の女性は、本当に同じ時代をともに生きたのか
ここまで巴御前、山吹御前、葵御前について考えてきた。
しかし、三人を同じ集団の仲間として扱う前に、もう一つ確認しておきたいことがある。
それは、三人の名前が、必ずしも同じ物語の中にそろって登場するわけではないということである。
『平家物語』には、巴と山吹が登場する。
一方、『源平盛衰記』では、巴と葵という二人の女将軍が語られる。
この違いは、単なる名前の書き間違いなのだろうか。
それとも、別々の女性についての伝承が存在していたのだろうか。
あるいは、物語が成立する過程で、人物の名前や役割が変化していったのだろうか。
ここは、まだ慎重に考える必要がある。
山吹と葵が別人だったのか、もともと同じような人物像から生まれたのかも、はっきりしていない。
この問題を考えるには、『平家物語』のさまざまな異本や『源平盛衰記』の記述を、さらに比較していく必要がある。
同じ出来事を扱った物語でも、成立した時期や伝えられてきた地域によって、内容が変わることがある。
その違いを調べることは、史実を探るだけでなく、人々がどのように歴史を受け継いできたのかを知ることにもつながる。
そして、そこにこそ、この三人を一緒に考える面白さがある。
巴だけを見ていれば、山吹や葵の存在には気づきにくい。
山吹の伝承だけを追っていれば、義仲軍に女性の武将がいたという物語の広がりを見落とすかもしれない。
異なる記録を重ね合わせてみることで、初めて見えてくる疑問がある。
ただし、複数の物語をつなぎ合わせて、一つの完成された歴史をつくってしまうことには注意したい。
歴史は、必ずしもきれいにつながっているわけではない。
記録同士が食い違うこともある。
その食い違いを無理に消さず、なぜ違うのかを考えることも大切なのである。
戦場に立った人、残された人、生き延びた人
最後に、三人の女性の人生をもう一度見つめてみたい。
巴御前は、最後の戦場から生き延びたと伝えられる。
山吹御前は、病気のため京都に残り、その後の人生について各地に異なる伝承が残されている。
葵御前は、倶利伽羅峠の戦いで命を落としたと語られている。
これらは軍記物語と伝承による姿であり、三人の実際の人生がこの通りだったと確認されているわけではない。
しかし、その物語を通して、私たちは人間の運命について考えることができる。
同じ時代に生き、同じ人物と関わっていたとされる人々であっても、人生の結末は異なる。
ある者は戦場で命を落とし、ある者は戦場に行くことすらできず、ある者は生き延びて別の道を歩む。
それは、本人の能力や努力だけで決まるものではない。
病気になることもある。
予想していなかった戦いに巻き込まれることもある。
自分では選べない状況に置かれることもある。
そして、生き延びた人間にも、その後の人生が続いていく。
私たちがこれまで考えてきた「運命共同体」という言葉には、ともに困難に向き合う人々の結びつきという意味がある。
しかし、同じ共同体に属しているからといって、全員が同じ運命をたどるわけではない。
むしろ、一人ひとりが異なる立場や能力を持ち、それぞれの判断を重ねながら、ともに生きていくところに、人間の集団の複雑さがあるのではないだろうか。
義仲を支えた人々も、決して一枚岩ではなかっただろう。
それぞれに家族があり、育ってきた環境があり、守りたいものがあったはずである。
時には意見が違ったかもしれない。
それでも、ある時期には同じ目的に向かって行動した。
そして、その共同体が崩れたとき、一人ひとりに異なる人生が待っていた。
巴御前の物語は、勇敢な女性の武勇伝として読むこともできる。
けれども、山吹御前や葵御前にも目を向けると、そこには戦いの勝敗だけでは説明できない人間の姿が浮かび上がってくる。
歴史に名を残した人が、必ずしも最も優れていたとは限らない。
名前が残らなかった人が、何もしていなかったわけでもない。
ある人の働きは記録に残り、別の人の働きは誰にも書き留められないまま消えていく。
しかし、そのどちらもが、当時の社会を形づくっていたのである。
私たちは、歴史に残された名前を手がかりにしながら、その背後にいた人々の存在も忘れずに考えていきたい。