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新田義貞の一族は、本当に滅びたのか。足利氏に従った血筋、戦国大名となった子孫、そして700年後に残された謎【5】

2015.08.05

脇屋義助の子・義治は、どこへ消えたのか

ここで、再び新田義貞の時代へ近づいてみます。

義貞の弟・脇屋義助は、兄の死後も越前で戦い続け、やがて伊予国へ向かいました。

しかし、1342年、義助は伊予で病に倒れて亡くなったとされています。

その義助には、義治という息子がいました。

脇屋義治です。

義治もまた、南北朝の動乱の中で活動しました。

新田義宗らとともに関東の戦いに関わり、その後の軍事活動についても記録や伝承が残されています。

しかし、義治の後半生については、分からない部分が多くあります。

1368年の新田義宗の挙兵に義治が関わったとする記録もありますが、その戦い自体の経過には不確実な点が残されています。

そして、その後の義治の行方も明確ではありません。

出羽方面へ逃れたという伝承もあります。

しかし、具体的にどの土地へ向かい、どのような人々と行動をともにしたのかは、十分に確認できません。

ここで考えたいのは、歴史の記録から人物の名前が消えることと、その人物がその時点で命を落としたことは同じではないということです。

戦場を離れたのかもしれません。

別の土地で暮らしたのかもしれません。

あるいは、後世に記録が伝わらなかっただけなのかもしれません。

しかし、それらを事実として決めることはできません。

義治の歴史には、答えの分からない問題が残っています。

そして、そのような人物は、新田一族の中に少なくなかったと考えられます。

名字を変えれば、一族の歴史も変わるのか

中世から近世にかけて、武士の家はさまざまな事情によって名字や家名を変えることがありました。

所領の地名を名字にする場合もあります。

婚姻や養子縁組によって、別の家へ入ることもあります。

主君から名字の使用を認められることもあります。

また、家の由緒を示すために、古い祖先とのつながりを系譜に記すこともありました。

そうした変化の中で、新田氏に連なるとされる家々も、異なる名字を名乗るようになっていきます。

里見氏。

岩松氏。

脇屋氏。

世良田氏。

そして、そのほかにも新田氏と関係する家が存在しました。

しかし、名字が同じだからといって、必ず同じ血筋に属するとは限りません。

反対に、名字が違っていても、同じ祖先を持つ場合があります。

さらに、後世に作られた系譜が、家の由緒を整えるために過去の人物と結びつけられている可能性もあります。

そのため、一族の歴史を調べるときには、名字だけで判断せず、それぞれの時代の文書を確かめる必要があります。

ここから、新田一族の歴史に残る、もう一つの大きな謎が現れます。

徳川家康は、本当に新田氏の子孫だったのか

江戸幕府を開いた徳川家康。

家康が掲げた系譜には、新田氏につながる世良田氏の名前が登場します。

徳川氏は、三河国松平氏から発展した家です。

家康は、松平という名字から徳川という名字を名乗るようになりました。

その背景には、松平氏の祖先を新田氏の流れに位置づける系譜がありました。

新田義重の子とされる義季。

その義季につながる世良田氏。

さらに、その系譜が松平氏へ続くという由緒です。

もしその系譜がすべて事実であれば、徳川家康も新田氏の祖先につながることになります。

しかし、ここには歴史上の大きな問題があります。

松平氏の初期の系譜については、確実な同時代史料によって確認できない部分があるのです。

特に、世良田氏と松平氏が具体的にどのようにつながるのかについては、研究上の議論があります。

そのため、徳川家康が新田氏の子孫だったと、系譜の記述だけで確定することはできません。

一方、徳川氏がそのような祖先とのつながりを重視し、家の由緒として掲げたことには意味があります。

なぜ、徳川家康は新田氏につながる系譜を必要としたのでしょうか。

そこには、武家社会における家格や由緒、政治的な権威の問題が関わっていたと考えられます。

ここでも大切なのは、実際に血筋がつながっていたのかという問題と、そのような系譜が作られ、重視された歴史とを区別することです。

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