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新田義貞の一族は、本当に滅びたのか。足利氏に従った血筋、戦国大名となった子孫、そして700年後に残された謎【6】

2015.08.06

足利氏に敗れた新田氏の名前が、徳川の時代に再び現れた

もし徳川家康が掲げた系譜を、そのまま受け取るならば、興味深い歴史のつながりが生まれます。

室町幕府を開いた足利尊氏。

その尊氏と戦って敗れた新田義貞。

そして、足利氏の将軍家が終わった後の時代に、武家政権を築いた徳川家康。

家康が新田氏の系譜を掲げたことは、歴史の長い流れを考える上で印象的です。

しかし、ここで新田義貞の子孫が足利氏に代わって天下を取った、と単純に説明することはできません。

徳川氏と新田氏の血統上の関係には、不確実な部分があります。

また、徳川家康が室町幕府を終わらせた人物だったわけでもありません。

室町幕府は、家康が江戸幕府を開くより前に、その政治的な役割を終えています。

それぞれ異なる時代の出来事です。

ただし、一つの家が遠い祖先とのつながりを重視し、その名前を政治的な由緒として使うことは、中世から近世にかけての武家社会を考える上で重要です。

実際の血筋を確認することと、その家が自分たちの歴史をどのように語ったのかを知ること。

その両方を調べることで、家系図に書かれた名前の背後にある歴史が見えてきます。

明治時代、新田岩松家が再び歴史の表舞台へ現れる

ここで再び、上野国の岩松氏へ戻ります。

岩松氏は戦国時代に政治的な実権を失いました。

しかし、岩松氏の系譜を受け継ぐ家は、江戸時代を通じて存続しました。

そして明治時代。

新田岩松家は、華族に列せられることになります。

新田俊純は、新田男爵家の初代となった人物です。

岩松氏の家に伝わった文書や武具は、後世まで大切に保存されてきました。

現在、太田市の新田荘歴史資料館には、岩松家に伝来した兜があります。

その兜には、1868年に新田俊純の名を記した添書きが付されています。

兜そのものは、形状から戦国時代以降の製作と考えられています。

ここで面白いのは、兜がいつ作られたのかという問題と、どの家に伝わってきたのかという問題が別であることです。

兜が新田義貞の時代のものでなくても、岩松家が長く受け継いできた武具であれば、その家の歴史を伝える重要な資料になります。

藤島で発見された義貞所用と伝わる兜。

そして岩松家に伝わった兜。

どちらも新田氏に関わる重要な資料ですが、持っている意味は同じではありません。

物そのものの年代。

所有していた人物。

後世にどのように伝えられたのか。

その違いを考えることも、歴史を調べる面白さの一つです。

新田義貞は、なぜ足利尊氏に勝てなかったのか

ここで、シリーズの最初に戻ってみたいと思います。

新田義貞と足利尊氏。

二人は、共通の祖先を持つ源氏の武将でした。

鎌倉幕府の滅亡にも、それぞれ大きな役割を果たしました。

しかし、その後の政治の変化の中で敵同士になりました。

足利尊氏は室町幕府を築きました。

新田義貞は越前で戦死しました。

では、なぜ義貞は尊氏に勝てなかったのでしょうか。

軍事的な指揮能力の違いだったのでしょうか。

政治的な判断の違いだったのでしょうか。

それとも、一族の規模や武士たちとの関係に違いがあったのでしょうか。

実際には、それらの要素が複雑に関わっていたと考えられます。

足利氏は、鎌倉時代から広い婚姻関係や一族のつながりを築いてきました。

尊氏自身が軍勢を率いるだけでなく、弟の直義や足利一門、高氏の家臣団など、多くの人物が政治と軍事を担っていました。

一方、新田義貞にも、一族や協力者がいました。

しかし、政治的な条件や支持基盤は足利氏と同じではありませんでした。

さらに、後醍醐天皇の建武政権が抱えた問題や、各地の武士たちの判断も、二人の対立に影響しました。

そして、義貞は越前での戦況を立て直しつつあった時期に、突然命を落としました。

その死が、後の歴史を大きく変えたことも考えなければなりません。

新田義貞の生涯を、足利尊氏に勝てなかったという一つの結果だけで説明することはできないのです。

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