新田義貞、越前への決断。後醍醐天皇と別れ、二人の皇子を守って北国へ向かった理由【4】
なぜ、越前の敦賀だったのか
敦賀は、日本海に面した重要な港町です。
現在でも敦賀湾の奥に港が広がり、周囲には山々が連なっています。
古代から北陸と畿内を結ぶ交通の要所であり、海上交通と陸上交通が交わる地域でした。
京都方面から北陸へ向かう道があり、日本海を通じて他の地域とも結ばれています。
この立地は、新田義貞たちにとって大きな意味を持っていたと考えられます。
京都から一定の距離を置きながら、北陸の武士たちと連絡を取り、勢力を回復する可能性がありました。
港を利用すれば、海上交通を通じた物資の確保も期待できます。
一方で、敦賀は山と海に囲まれた地域です。
交通路が限られることは、防御に有利になる場合もあれば、敵に道を押さえられたときに逃げ場を失う危険にもつながります。
新田義貞たちは、そうした条件を持つ敦賀を新しい活動の拠点としました。
しかし、越前全体が義貞を支持していたわけではありません。
斯波高経をはじめ、足利方の有力な勢力がすでに存在していました。
義貞が敦賀に到着したことは、安全な土地を手に入れたことを意味しません。
むしろ、ここから新たな戦いが始まることになったのです。
金ヶ崎城。海と山に囲まれた最後の拠点
敦賀湾に面した山の上に、金ヶ崎城がありました。
現在も国指定史跡として残されている城跡です。
金ヶ崎城は、天筒山から北西へ延びる尾根の先に位置しています。
山の斜面は海へ向かって下り、周囲には険しい地形が広がります。
城跡には、かつての防御施設に関わる城戸や堀の痕跡が残されています。
標高だけを見れば、非常に高い山ではありません。
しかし、城の強さは高さだけでは決まりません。
攻め寄せる軍勢が、どの方向から登れるのか。
大人数で進める道があるのか。
敵が近づく場所を見渡せるのか。
兵糧や水を確保できるのか。
そうした条件によって、守りやすさは変わります。
金ヶ崎城は、海と山に囲まれた地形を利用できる一方、包囲されれば補給が難しくなる危険も抱えていました。
義貞は、この城を二人の皇子たちの拠点としました。
そして足利方の軍勢が迫り、金ヶ崎城をめぐる攻防が始まります。
城を守ることと、戦い続けることは同じではない
城を守る側にとって、敵の攻撃を防ぐことは重要です。
しかし、どれだけ堅固な城でも、長期間にわたって補給を断たれれば、状況は厳しくなります。
城内には食料が必要です。
飲み水が必要です。
負傷者を治療する場所も必要になります。
武器や矢も無限にあるわけではありません。
さらに、城を守る兵だけでなく、皇子たちや従者の安全も考えなければなりません。
金ヶ崎城に入った義貞たちは、足利方の包囲に備えることになります。
しかし、足利軍との戦力差が大きくなれば、城内の軍勢だけで状況を変えることは難しくなります。
そのため、周辺の武士たちとの連携が重要になりました。
越前には、義貞たちを支えようとする人々もいました。
その一つが、杣山城を拠点とする瓜生氏です。
瓜生氏は、南北朝の動乱の中で後醍醐天皇方を支持し、金ヶ崎城の救援にも関わることになります。
けれども、救援に向かう軍勢もまた、足利方との戦いを避けることはできませんでした。
一つの城を守るためには、その周囲にいる多くの人々の協力が必要です。
その協力を得られなければ、城の防御力が高くても、孤立してしまうのです。