木曽川がつないだ信長と秀吉――一通の古文書から見えてくる戦国の人々
――戦国の天下取りを支えた、川と城と名もなき人々の物語
永禄8年(1565年)。
尾張と美濃の国境を流れる木曽川。
川面には荷を積んだ舟が行き交い、岸辺では人々が荷物を運び、渡し場では旅人や商人が対岸へ渡る機会をうかがっていたことでしょう。
川を越えれば、そこは別の領主が支配する土地。
城があり、村があり、田畑があり、それぞれの暮らしを守る人々がいました。
この木曽川を挟んで、織田信長は美濃への進出を進めていました。
信長の美濃攻略というと、城を攻め落とす戦いや武将たちの活躍が思い浮かびます。
しかし、軍勢が川を渡り、敵の城に迫るためには、兵糧を運び、渡し場を確保し、周辺の領主たちとの関係を築かなければなりません。
戦国の戦いを動かしていたのは、武器を手にした兵士だけではなかったのです。
そして、この木曽川流域に、一通の興味深い古文書が残されています。
そこに登場するのが、後に天下人となる豊臣秀吉でした。
一、1565年11月2日――秀吉が残した一通の文書
名古屋市博物館が編纂した『豊臣秀吉文書集』第1巻。
その冒頭に収録されているのは、永禄8年11月2日付の「坪内喜大郎宛判物写」です。
坪内喜大郎とは、木曽川流域の松倉城に関係する坪内利定のことです。
文書には「木下藤吉郎秀吉」の名が記され、合計622貫文に及ぶ知行について述べられています。
この文書は、現在確認されている秀吉の最初期の発給文書として知られています。
ただし、現存するのは原本ではなく写しです。
それでも、この文書が伝えている内容には、見逃せないものがあります。
後に天下人となる秀吉の最初期の記録が、華々しい合戦の勝利でも、信長との有名な逸話でもなく、地域領主の土地に関する文書だったのです。
なぜ秀吉が、このような仕事に関わっていたのでしょうか。
そこから、戦国時代のもう一つの姿が見えてきます。
二、松倉城と坪内氏――川を押さえる人々
現在の岐阜県各務原市川島松倉。
この地域には、かつて坪内氏の拠点であった松倉城が存在しました。
坪内氏は、織田信長に仕えた後、徳川家康にも仕えた一族として、地域の歴史資料に名前を残しています。
その土地を理解するうえで欠かせないのが、木曽川です。
現代のように橋が整備されていなかった時代、川を渡ることは簡単ではありませんでした。
人や馬、武器、食糧を対岸へ運ぶには、舟や渡し場、川の流れに詳しい人々の力が必要だったはずです。
大軍が移動するなら、なおさらでしょう。
土地を支配するということは、単に城を持つことではありません。
周辺の村々、農地、交通路、そしてそこに暮らす人々との関係を維持することでもありました。
そのような地域勢力を、戦争のたびにすべて敵に回していては、軍勢を進めることも難しくなります。
信長にとって、木曽川沿いの領主たちを味方につけることには、大きな意味があったと考えられます。
そして秀吉の文書は、まさにそのような地域勢力との関係を考える手掛かりとなっています。
三、鵜沼城の攻防――戦わずに城を明け渡すという選択
木曽川をさらに東へ進むと、鵜沼の地に至ります。
ここにも、興味深い歴史が残されています。
鵜沼城は、木曽川に面した険しい城山にあったとされる城です。
『信長公記』には、信長が美濃攻略に際して、鵜沼城や猿啄城を攻略目標としたことが記されています。
信長は木曽川沿いの伊木山に拠点を築き、鵜沼城を圧迫しました。
その結果、城主とされる大沢次郎左衛門は降伏したと伝えられています。
ここで考えたいことがあります。
城を守る側は、必ずしも最後まで戦うとは限りません。
対岸や周辺の拠点を敵に押さえられ、補給路が断たれる危険が高まれば、城を守り続けること自体が難しくなります。
領主には、自分の命だけでなく、家臣や家族、領民の将来もかかっていました。
戦うべきか。
降伏するべきか。
誰を仲介者として交渉するべきか。
こうした判断が、戦場の外でも繰り返されていたのでしょう。
江戸時代の『太閤記』には、秀吉が大沢次郎左衛門を説得し、信長との間を取り持った物語が登場します。
その具体的な経緯を、同時代の記録だけで裏付けることはできません。
しかし、秀吉が坪内氏に関する知行文書を発給していたことと、同じ時期に木曽川沿いで信長の美濃攻略が進んでいたことを合わせると、考察すべき問題が浮かび上がります。
若き日の秀吉は、戦うことだけでなく、地域勢力との関係を築く仕事にも関わっていたのではないでしょうか。
四、発掘された遺物が語る、もう一つの鵜沼
この地域の歴史を考える材料は、古文書だけではありません。
各務原市の鵜沼古市場遺跡では、道路建設に伴って6度の発掘調査が行われています。
調査では、室町時代の承国寺や鵜沼城に関係する遺物が出土しました。
和鏡、古銭、瓦など、当時の人々の活動を伝える品々です。
これらの遺物は、城主や武将の名前を直接語るものではありません。
しかし、そこに寺院があり、人が集まり、建物を造り、物資を使って生活していたことを考える材料になります。
城が存在するためには、それを支える地域社会が必要です。
城を築く職人。
食糧を生産する農民。
物資を運ぶ人々。
商いをする人々。
寺院を守り、地域の人々を結び付ける人々。
こうした存在を抜きにして、城主だけの歴史を語ることはできません。
秀吉が関わった可能性のある木曽川流域の交渉も、こうした人々の暮らしと切り離されたものではなかったはずです。
五、秀吉は何を評価されたのか
秀吉には、信長の草履を懐で温めたという有名な逸話があります。
機転の利く若者が主君の心をつかみ、出世のきっかけを得たという物語です。
しかし、永禄8年の坪内氏宛文書に目を向けると、別の問いが生まれます。
当時の秀吉は、すでに土地の保証に関係する文書を発給する立場にありました。
土地の保証は、地域領主の生活基盤や支配権に関わる重要な仕事です。
そのような文書を扱う人物には、一定の権限と責任が求められたと考えられます。
秀吉は、その役割をどのようにして任されるようになったのでしょうか。
戦場での働きだったのでしょうか。
人との交渉だったのでしょうか。
あるいは、地域の事情を知り、信長の命令を実際の支配へ結び付ける能力だったのでしょうか。
文書だけで、その答えを一つに決めることはできません。
しかし、最初期の秀吉が、すでに地域の土地支配に関わる仕事を担っていたという記録は、彼の出世を考えるうえで重要です。
六、川の流れが変わっても、残された歴史
木曽川の姿は、戦国時代から現在まで変わらなかったわけではありません。
洪水や河川改修によって流路が変わり、かつての渡し場や集落の位置関係も変化しました。
各務原市の資料には、1586年の大洪水による流路の変化と、坪内氏が開いたとされる松倉の渡し場についての記録があります。
つまり、現在の地図だけを見ても、戦国時代の交通網をそのまま復元することはできないのです。
古い地図や河川の記録、村に残る伝承、城跡、発掘成果を照らし合わせる必要があります。
そこに、まだ明らかになっていない歴史が残されているかもしれません。
秀吉が実際にどの道を通り、どの渡し場を利用し、誰と会っていたのか。
その一つひとつは、今後も調べるべき問題です。
七、天下人になる前の秀吉が残したもの
豊臣秀吉の人生を振り返ると、どうしても天下統一という大きな結果に目を奪われます。
しかし、その出発点を調べると、私たちは一通の土地に関する文書に行き着きます。
そこには、天下人の華やかさはありません。
あるのは、土地を守ろうとする地域領主と、それを取り巻く政治的な関係です。
信長の美濃攻略を支えたのは、武力だけではなかったのでしょう。
川を渡るための交通手段。
軍勢を支える食糧。
地域の事情を知る人々。
そして、互いの利害を調整する仕事。
それらが結び付かなければ、大きな軍勢も思うようには動かなかったはずです。
秀吉は、そうした世界の中で、どのような経験を積んでいったのでしょうか。
木曽川の流れは変わり、城の多くは姿を消しました。
それでも、古文書や地形、地中から現れる遺物は、当時の人々の活動を今に伝えています。
天下を動かしたのは、歴史に名を残した武将だけではありません。
その足元には、川を渡り、物を運び、土地を耕し、人と人をつないだ無数の人々がいました。
一通の古文書から見えてくるのは、そんな戦国時代の姿なのかもしれません。