印旛沼の人々は、何を食べて暮らしていたのか
歴史を政治だけで見ると、人間が消えてしまいます。
でも毎日を生きる人にとって一番大切なのは、今日何を食べるかです。
古い印旛沼は、現在のような淡水湖だけではありませんでした。
縄文から弥生時代には、海とつながる内海の一部で、周辺の遺跡からはアサリ、
ハマグリ、マガキなど海水や汽水に暮らす貝類が見つかっています。
千年ほど前でも、印旛沼は霞ヶ浦や北浦などへつながる広い水域の一部でした。
魚がいる。
貝が採れる。
水鳥も来る。
周囲の台地では狩りもできる。
時代が下れば田畑も広がる。
つまり、水辺と台地の両方を使える場所です。
これはかなり強い。
天候が悪く米が取れない年でも、魚や貝がある。
逆に漁が難しい季節には、畑や山の恵みを使う。
もちろん実際の比率は時代によって違いますが、一種類の食料だけに依存しない暮らしは、地域社会を維持するうえで大きな意味を持ったはずです。
そして食料に余裕ができれば、全員が毎日食料を採る必要はなくなります。
土器を作る人。
木を加工する人。
鉄を扱う人。
船を作る人。
祭祀を担う人。
地域をまとめる人。
社会の役割が分かれていきます。
古墳を造ることもできる。
神を祀ることもできる。
だから私は、印旛の古代社会を考える時に「水運の中心」だけでは足りないと思っています。
その水は、人を運ぶだけではなく、人を食べさせてもいた。
水があったから暮らしが成立した。
暮らしが成立したから人が増えた。
人が増えたから社会が複雑になった。
その先に古墳や祭祀がある。
神社の歴史をたどっていたはずなのに、最後は毎日の食事へ戻ってくる。
でも本当は、その方が人間の歴史として自然なのかもしれません。