北の海に残された祖先の記憶――オホーツク文化・擦文文化からアイヌ文化へ
――二つの文化が出会った場所。そして、能登から届いた鉄鍋の謎
今から約1,100年前。
現在の北海道東部、オホーツク海に面した地域。
海辺の集落では、人々が魚や海獣を捕り、自然の恵みを利用して暮らしていました。
その土地に、これまでとは異なる形の土器や、住まいのつくり方が広がっていきます。
古くから受け継がれてきた道具。
新しく伝わった技術。
人々は、その両方を使いながら暮らしを変えていったのでしょう。
そして、長い年月が過ぎた後、考古学者たちは不思議な土器を発見しました。
一つの土器に、二つの異なる文化の特徴が残っていたのです。
その名は、トビニタイ土器。
オホーツク文化と擦文文化の特徴をあわせ持つ土器です。
なぜ、そのようなものが生まれたのでしょうか。
異なる地域から来た人々が、同じ土地で暮らすようになったからでしょうか。
技術を教え合ったのでしょうか。
それとも、婚姻によって一族が結ばれ、新しい世代が生まれていったのでしょうか。
この謎を追いかけると、北海道から樺太、アムール川流域、さらに日本海を南下して越へと続く、大きな人々の歴史が見えてきます。
北海道には、二つの異なる文化が広がっていた
古代北海道の歴史を調べると、本州とは異なる文化の歩みが見えてきます。
5世紀頃、樺太方面とつながるオホーツク文化が北海道の北部や東部に広がりました。
人々は海獣狩猟や漁労に優れ、大型の竪穴住居で生活していました。
一方、7世紀頃から北海道南部や中央部では、擦文文化が広がっていきます。
擦文文化は、本州の土師器や生活技術から影響を受けながら、北海道独自の発展を遂げた文化です。
土器の形も違いました。
住まいのつくり方にも違いがありました。
食料を得る方法や祭祀にも、それぞれ特徴がありました。
しかし、その二つの文化は、いつまでも離れた場所に存在していたわけではありません。
8〜9世紀頃、北海道東部などで両文化が接するようになったのです。
ここで考えてみたいことがあります。
異なる文化を持つ人々が出会ったとき、必ず一方が他方を征服しなければならないのでしょうか。
必要なものを交換する。
優れた技術を取り入れる。
お互いの暮らしを知る。
そんな関係から、新しい文化が生まれることもあるのではないでしょうか。
そして、北海道には、その変化を具体的に示す遺跡が残されていました。
一つの土器に、二つの文化が現れた
北海道北見市の常呂川河口遺跡。
ここから、トビニタイ土器と呼ばれる特徴的な土器が出土しています。
器の形や表面の調整方法には、擦文文化の特徴があります。
ところが、表面に付けられた粘土紐の文様には、オホーツク文化の特徴が残っていました。
形は擦文、文様はオホーツク。
異なる文化の技術が、一つの土器の中で組み合わされていたのです。
これは興味深い発見です。
土器は、人々が日常生活で使う道具です。
その形や製作方法は、長い年月をかけて受け継がれます。
新しい技術が伝わったとしても、それまで使っていた方法をすべて捨てる必要はありません。
使いやすい形を取り入れながら、昔からの文様を残す。
自分たちの暮らしに合った方法を選ぶ。
そうした工夫があったのでしょう。
北海道デジタルミュージアムによれば、この変化は土器だけではありません。
住居の形や暮らし方にも、両文化の特徴が現れるようになりました。
しかも、変化は一度に起きたわけではありません。
長い時間をかけて、少しずつ進んでいったのです。
200年以上かけて変わった人々の暮らし
国立歴史民俗博物館の研究によると、北海道東部では、オホーツク文化が擦文文化の影響を受けながら、200年以上をかけて変化していったと考えられています。
10世紀頃には、両文化の特徴を持つ土器や住居が現れます。
11世紀になると、擦文文化の影響はさらに強まります。
そして12世紀頃には、オホーツク文化に特徴的だった暮らし方の多くが変化していました。
ここで重要なのは、人々が突然消えてしまったという話ではないことです。
文化が変わっても、その土地で暮らす人々の生活は続いていきます。
魚を捕る人。
道具をつくる人。
家族を育てる人。
海や山の変化を読みながら働く人。
新しい道具が使いやすければ、それを取り入れるでしょう。
しかし、長年受け継いできた習慣を、すべて一度に変える必要はありません。
人々は、自分たちに必要なものを選びながら、暮らしを組み立てていったのではないでしょうか。
文化の融合とは、異なる人々が出会い、何世代もかけて新しい暮らしを築いていくことだったのかもしれません。
その変化は、祭祀にも現れていた
オホーツク文化の人々には、独特の動物儀礼がありました。
北海道東部の遺跡では、住居の内部にクマなどの動物の骨を集めた場所が見つかっています。
骨を加工したクマの像も出土しています。
海や森で得られる動物は、人々の暮らしを支える大切な存在でした。
その動物を特別なものとして扱い、儀礼を行っていたのです。
ところが、トビニタイ文化の時代になると、こうした住居内の骨塚は姿を消していきます。
住まいの形だけでなく、祭祀のあり方も変化していたのです。
では、古い信仰そのものは消えてしまったのでしょうか。
ここで後のアイヌ文化を考えると、興味深い関係が見えてきます。
アイヌ文化には、クマを特別な存在として敬う信仰があります。
ただし、オホーツク文化の儀礼が、そのまま同じ形でアイヌ文化へ続いたわけではありません。
長い交流と変化の中で、さまざまな文化の要素が受け継がれ、組み合わされていったと考えられています。
形が変わっても、人々が大切にしてきた自然や祖先への思いは、別の姿で受け継がれることがある。
この視点は、出雲や諏訪の神々の伝承を考えてきたときにも通じるものがあります。
ところが、北方の交流には別の大きな変化が起きた
時代を12〜13世紀へ進めます。
この頃、北海道の社会には大きな変化が現れ始めます。
それまで日常的に使われていた土器が、次第につくられなくなっていきます。
代わって、鉄鍋などの金属製品が広く利用されるようになります。
これは重要な変化です。
土器は粘土と燃料があれば、地域の人々が自分たちで製作できます。
しかし、鉄鍋には別の技術が必要です。
鉄の材料。
高温を扱う加工設備。
鋳造や鍛造の技術。
そして、それを扱う熟練した職人。
すべての集落で、簡単につくれるものではありません。
では、北海道の人々は鉄鍋をどこから手に入れたのでしょうか。
ここで、本州との交易が重要になります。
日常生活に欠かせない道具が、遠く離れた地域のものづくりと結びつくようになったのです。
そして、鉄鍋の産地を調べると、思いがけない場所が浮かんできます。
能登から届いた鉄鍋
石川県の能登半島。
日本海に突き出したこの地域は、古くから海上交通に関わってきました。
その能登に、中居という土地があります。
現在の石川県鳳珠郡穴水町にあたる地域です。
ここには、中世に鉄鍋などの鋳物をつくった歴史があります。
そして、北海道で使われていたアイヌ文化期の鉄鍋について、非常に興味深い研究が行われました。
国立歴史民俗博物館などが関わった研究では、14世紀半ば以降の鉄鍋の製作地として、能登の中居が推定されているのです。
ここで、思わず立ち止まります。
これまで越から北海道へ運ばれた翡翠を調べてきました。
ところが、時代が進むと、今度は能登でつくられた金属製品が、北方の人々の生活に関わっていたのです。
縄文時代の翡翠。
中世の鉄鍋。
品物は違います。
時代も大きく離れています。
しかし、そこには共通するものがあります。
日本海を通じて、越と北方の人々が結びついていたということです。
では、その鉄鍋を北海道へ運んだ人々は、何を持ち帰ったのでしょうか。
北海道からは、何が送り出されたのか
北海道には、本州では得にくい資源がありました。
豊富なサケ。
毛皮。
海産物。
さらに、樺太やアムール川流域との交易によって入手できる品物もありました。
一方、本州には鉄鍋や刀、漆器、陶器などをつくる技術がありました。
そこで、人々は必要なものを交換します。
北海道から資源が運ばれる。
本州から鉄製品や漆器などが届く。
そして、樺太やアムール川方面からは、絹やガラス玉なども交易によって入ってくる。
この関係は、後のアイヌ文化の時代に大きく発展していきます。
国土交通省の観光資料によると、13世紀頃からアイヌの人々は樺太南部や千島列島へ渡り、さらにアムール川下流域やカムチャツカ方面の人々とも交易を行っていました。
北海道は、南の本州と北の大陸を結ぶ、大きな交流の中心になっていたのです。
そして、その交易網の中に、越のものづくりが関わっていました。
技術をつくる人と、技術を使う人
ここで、ものづくりという視点から考えてみます。
能登の職人が鉄鍋をつくる。
北海道の人々が、その鉄鍋を利用する。
互いに遠く離れていても、道具を通じて暮らしが結びついています。
鉄鍋をつくる職人には、材料や加工条件を理解する技術が必要です。
一方、使う人々には、その道具を生活の中で使いこなす知識が必要です。
寒い土地で火を扱う方法。
食料を調理する方法。
道具を長持ちさせる方法。
新しい道具が届けば、それに合わせて暮らし方を工夫することもできるでしょう。
これは単に物を交換したという話ではありません。
異なる地域の人々が、それぞれの技術と経験によって、互いの暮らしを支えていたということです。
そして、こうした関係を長く続けるためには、交易路を維持する必要があります。
船を操る人。
港で荷物を扱う人。
道具をつくる人。
取引を取りまとめる人。
その一人ひとりの仕事が、広い交流網を支えていたのです。
北方の人々は、一方的に文化を受け取っていたのか
ここまでの歴史を見てくると、一つの疑問が生まれます。
北海道の人々は、本州や大陸から文化を受け取るだけの存在だったのでしょうか。
そうではありません。
北海道には、北の自然環境に合わせて発達した高度な技術がありました。
海獣を捕る技術。
サケを大量に利用する技術。
毛皮を加工する技術。
海峡を越えて航海する技術。
そうしたものは、ほかの地域の人々が簡単に身につけられるものではありません。
自然の中で長く暮らし、経験を積んできた人々だからこそ、使いこなせる技術です。
そして、それらの資源や技術を必要とする人々が、遠くの土地にいました。
北の人々には北の強みがあり、南の人々には南の強みがあった。
互いに異なるものを持つからこそ、交流が続いていったのでしょう。
ここで、これまで考えてきた古代のクニの姿が重なります。
異なる地域の共同体が、独自の暮らしを守りながら結びつく。
その関係は、国家の成立や政治的な境界とは別に、長い時間をかけて育ってきたものだったのです。
交流が深まると、人々の関係も変わる
交易が続けば、遠くの地域にも顔なじみができます。
船を出す季節を知る。
品物の価値を理解する。
互いに必要なものを用意する。
場合によっては、婚姻による親族関係も生まれるでしょう。
しかし、交易が発展すれば、必ず平等な関係が続くとは限りません。
後の時代には、交易を管理する権力が強くなり、交換条件が変化することもありました。
江戸時代の松前藩による交易統制は、その一例です。
それまで複数の相手と交流できていた人々が、特定の相手との取引を求められるようになる。
自分たちで決めていた交易の条件が、外部の権力によって変えられていく。
そのような変化は、人々の暮らしにも大きな影響を与えたでしょう。
ここで考えたいのは、交流によって結ばれた共同体と、権力によって管理される交易では、人々の立場が違ってくるということです。
この変化は、越や東北の歴史を調べるときにも重要な視点になります。
そして、越の存在が再び浮かび上がる
今回の歴史探訪では、北海道の北と南から広がった二つの文化を調べてきました。
オホーツク文化。
擦文文化。
その二つが出会い、長い年月をかけて新しい文化を形成していった。
そして、後のアイヌ文化へとつながっていきました。
その間にも、人々は海を渡り、物資を運び、技術を交換していました。
北海道から樺太へ。
樺太からアムール川流域へ。
北海道から東北へ。
さらに日本海を南へ進めば、越があります。
越では古くから翡翠や碧玉が加工され、後の時代には鉄器や鋳物の技術も発達しました。
そして、能登の鉄鍋が北方の人々の生活に関わっていたという資料まで残されています。
越は、時代が変わっても、日本海の広い交流網の中で重要な役割を果たし続けていたのではないでしょうか。
ここで、さらに大きな疑問が生まれます。
なぜ、これほど長い時間にわたって、越と北方の交流が続いたのでしょうか。
同じ航路を、何世代もの人々が受け継いできたのでしょうか。
海を渡る技術は、どのように伝えられてきたのでしょうか。
そして、その交流を支えたのは、どのような一族や共同体だったのでしょうか。
消えた文化ではなく、受け継がれた暮らし
オホーツク文化は、後の時代には独立した考古学的な文化として姿を見せなくなります。
擦文文化も、やがてアイヌ文化へと移り変わっていきます。
しかし、文化の名前が変わったからといって、そこに暮らした人々の歴史まで消えるわけではありません。
新しい道具を取り入れる。
異なる地域の人々と交流する。
婚姻によって家族が増える。
古い祭祀を受け継ぎながら、暮らし方を変えていく。
そうした活動の積み重ねが、新しい文化を生み出してきたのでしょう。
そして、その歴史は現在の北海道やロシア極東にも、さまざまな形で残されています。
歴史をつくったのは、文化の名前ではありません。そこで暮らしていた人々です。
その人々が何を考え、どう行動し、何を次の世代へ伝えたのか。
そこを追いかけることで、古代の交流の実像に近づいていけるのではないでしょうか。
そして、まだ大きな謎が残っています。
越・東北・北海道・樺太を結ぶ交流は、政治的な支配が変わるたびに、どのような影響を受けたのでしょうか。
交易相手が変わったのか。
移動する道が変わったのか。
それとも、古くからの人々のつながりは、支配者が変わっても続いていたのでしょうか。
次回は、古代から中世へと時代を進め、日本海の交易と各地の政治勢力の変化を追いかけます。
越から北へ続く海の道には、まだ知られていない人々の歴史が眠っています。
第29話「日本海を動かした人々――越・東北・北海道を結んだ交易と政治の謎」へ続きます。