日本海を動かした人々――越・東北・北海道を結んだ交易と政治の謎
――幻の港町、敗れた一族、そして海の向こうで始まった再起
日本海に面した、ひとつの港町。
港には遠くから来た船が並び、荷物を運ぶ人々が行き交っています。
船から降ろされるのは、鉄製品、陶磁器、米、さまざまな生活用品。
一方、北の土地からは毛皮や海産物などが運ばれてきます。
品物を確かめる人。
取引の条件を相談する人。
壊れた道具を直す職人。
船の出発に備える人々。
そこには、海を通じてつながる活気ある世界が広がっていました。
ところが、ある日、その港を中心に大きな争いが起きます。
長く地域を治めていた一族が戦いに敗れ、故郷を離れなければならなくなったのです。
彼らはいったい、どこへ向かったのでしょうか。
山の中へ逃げ込んだのでしょうか。
それとも、以前から交流していた別の土地を目指したのでしょうか。
驚くことに、その一族が選んだのは、海の向こうの北海道でした。
これは、伝説だけに残された話ではありません。
青森県の歴史資料に記録された、実際の中世の出来事です。
そして、この話を詳しく調べると、越から北海道へ続く日本海の交易網が、思いがけない姿を現してきます。
津軽にあった、幻の港町
青森県五所川原市。
津軽半島の日本海側に、十三湖という潟湖があります。
その湖の西側に、十三湊という港町がありました。
現在では静かな遺跡が広がっていますが、中世には日本海を代表する重要な港の一つでした。
ここには、北の北海道から来る船がありました。
南からは、京都方面と結ばれた交易船もやって来ました。
つまり、十三湊は北方と西日本を結ぶ港だったのです。
しかし、長い間、この港の詳しい姿は分かっていませんでした。
中世の記録には登場するものの、町そのものは姿を消していたからです。
一時は、大津波によって滅びたという話も伝えられていました。
ところが、1991年から本格的な発掘調査が始まると、驚くべきものが発見されました。
道路。
建物跡。
井戸。
鍛冶などの工房。
そして、大量の陶磁器です。
消えたと思われていた港町が、土の中から再び姿を現したのです。
発掘されたのは、計画的につくられた町だった
十三湊遺跡は、南北約2キロメートルに及ぶ広大な範囲に残されています。
町の中心部には道路が整備され、建物が規則的に配置されていました。
さらに、土塁や空堀によって区画された場所もありました。
ここで注目したいのは、単に建物が多かったということではありません。
大勢の人々が暮らし、働き、物資を運ぶための仕組みが整っていたということです。
船が到着すれば荷物を降ろさなければなりません。
倉庫へ運び、必要に応じて保管します。
道具が壊れれば修理する必要があります。
遠くへ出発する船には、食料や水も必要でしょう。
港には、こうした仕事を担う人々が集まります。
そして、物資を運ぶ道が港の外側にも続いていなければなりません。
十三湊には、岩木川を通じて津軽平野の内陸へ向かう道がありました。
さらに、日本海を通じて越や北海道へ向かうこともできます。
ここで、これまで調べてきた古代の交通路が再び現れます。
海の道と川の道が結びつき、人々の暮らしを支えていたのです。
越の品物が、津軽まで運ばれていた
十三湊の発掘調査では、中国製の陶磁器や高麗青磁など、さまざまな地域に由来する品々が確認されています。
そして、その中には、石川県でつくられた珠洲焼もありました。
珠洲焼は、能登半島で生産された中世の陶器です。
丈夫な焼き物として知られ、日本海沿岸の広い地域へ運ばれていました。
ここで、考えてみてください。
能登で職人が土を選び、窯を焚き、器をつくる。
完成した器を港へ運ぶ。
船に積み、日本海を北上する。
そして、遠く離れた津軽の十三湊へ届ける。
越のものづくりが、北方の港町の暮らしを支えていたのです。
縄文時代には、糸魚川の翡翠が北へ運ばれていました。
中世になると、能登の珠洲焼や鉄製品が北方交易に登場します。
時代も品物も違います。
しかし、日本海を利用して人々が交流していたという点では、共通するものがあります。
では、この大きな交易網を支えていたのは誰だったのでしょうか。
港を支配していた安藤氏という一族
十三湊の歴史を調べると、安藤氏、または安東氏と呼ばれる一族が登場します。
この一族は、中世の津軽で大きな力を持ち、十三湊を中心とする北方交易に深く関わっていました。
鎌倉幕府との関係も持ち、北海道方面の人々との交易や交渉にも関わっていたとされています。
ただし、ここで重要なのは、安藤氏の権力だけではありません。
彼らが力を持つためには、交易を支える人々との関係が必要だったということです。
船を操る人々。
港を守る人々。
物資を運ぶ人々。
北海道からやって来る交易相手。
そして、能登や越後などから船を出す人々。
こうした人々がいなければ、港の繁栄は成り立ちません。
安藤氏が有力な一族だったとしても、海の道そのものを一人で動かすことはできなかったでしょう。
一族の政治的な力は、広く結びついた人々の仕事と信頼関係によって支えられていたのです。
そして、そのつながりが、後に一族の運命を大きく変えることになります。
1432年、安藤氏は故郷を追われた
15世紀、津軽では安藤氏と南部氏の間で争いが続いていました。
そして1432年。
安藤氏は南部氏との戦いに敗れ、十三湊を離れることになります。
ここで、驚くべき行動が記録されています。
安藤氏は、北海道へ渡ったのです。
なぜ、北海道だったのでしょうか。
北には寒い土地が広がります。
海峡を越える必要もあります。
船を用意し、家族や仲間を連れて移動するのは簡単ではありません。
それでも北海道を選んだ。
ここで、これまでの歴史探訪を思い出してください。
移住するには、行き先に暮らせる場所が必要です。
食料を得る方法を知っている人々が必要です。
そして、受け入れてくれる相手がいれば、その移動は現実的なものになります。
安藤氏は、以前から北海道との交易関係を持っていました。
海の向こうには、すでに関係を築いていた人々がいたのです。
そう考えると、北海道へ向かった行動には明確な理由が見えてきます。
単に追っ手から逃れたのではありません。
長年の交流によって築かれた人間関係を頼ったのではないでしょうか。
敗れても、そこで終わらなかった
安藤氏の歴史には、さらに驚く続きがあります。
北海道へ退いた後、安藤氏は十三湊へ戻ることに成功しました。
しかし、その平穏は長く続きません。
1442年、再び南部氏の攻撃を受け、もう一度北海道へ退くことになります。
その後、安藤氏は十三湊へ戻ることができませんでした。
ここで、不思議なことがあります。
それほど栄えていた十三湊も、安藤氏がいなくなった後、次第に衰退していったのです。
青森県の発掘調査では、町の衰退した時期と、安藤氏が北海道へ退いた時期が重なることが確認されています。
かつて伝えられた大津波による突然の壊滅とは異なり、政治的な争いと港町の衰退が結びついていたのです。
ここで、重要な問いが生まれます。
港そのものが残っていたのに、なぜ町は衰退したのでしょうか。
海が消えたわけではありません。
川がなくなったわけでもありません。
港へ船を入れる地形も残っていました。
しかし、交易をまとめていた一族が去ることで、町の仕組みが変わってしまったのです。
これは、古代から考えてきた交流網の強さと、その弱点を同時に示しているように思えます。
港の本当の価値は、人々のつながりだった
十三湊が繁栄した理由は、立地のよさだけではなかったのでしょう。
北海道から船が来る。
能登から陶器が届く。
内陸から農作物が運ばれる。
さらに、中国や朝鮮半島に由来する品々も集まる。
その交流を成立させていたのは、人々の間に築かれた関係でした。
誰と取引するか。
どの港を利用するか。
誰に荷物を預けるか。
どの季節に船を出すか。
そうした知識や約束は、人間の中にあります。
港の施設だけを手に入れても、その関係を簡単に引き継げるとは限りません。
ここで、最初の越の話とつながります。
越もまた、日本海を通じて広い地域と結びついていました。
翡翠や碧玉、鉄製品、陶器など、時代ごとに異なる品物が運ばれていました。
豊かな土地や港を持つこと以上に、その土地と遠方の人々を結びつける関係こそ、大きな力だったのではないでしょうか。
この視点は、古代の越の強さを考えるうえでも重要になってきます。
ところが、交易には権力も入り込んでくる
ここで、もう一つの問題があります。
人々が必要なものを交換するだけなら、互いに納得できる関係があれば成り立ちます。
しかし、交易によって大きな利益が生まれるようになると、その流れを管理しようとする人物や勢力も現れます。
港を押さえる。
取引を管理する。
通行や船の出入りに条件を設ける。
特定の相手との交易を優先させる。
そうした仕組みが生まれれば、交易は暮らしのためだけの活動ではなく、政治的な力にも結びついていきます。
この変化は、北方の歴史にも残っています。
北海道では、後の時代に松前氏が交易を管理するようになりました。
しかし、それ以前からアイヌの人々は、本州や樺太、アムール川流域などと交流していました。
政治的な権力が交易を管理するようになる以前から、人々の交流は存在していたのです。
ここを忘れてしまうと、後世の支配者が交易を始めたように見えてしまいます。
本当は、すでに人々が行き来していた道を、後から政治的な勢力が利用し、管理するようになったのかもしれません。
秋田城にも、北方から人々が集まっていた
ここで、もう少し古い時代へ戻ってみます。
8〜9世紀の秋田城。
朝廷によって設置された、この日本海側の拠点にも、北方から交易のために人々が訪れていました。
北海道大学が紹介する古代の記録には、渡嶋の人々が毛皮を持って秋田城へ来ていたことが記されています。
しかも、面白いことがあります。
都の有力者たちが、北方から運ばれてきた良質な毛皮を競って買い求めていたのです。
802年の太政官符には、渡嶋の人々が持参した毛皮のうち、良質なものを王族や貴族の家が先に買い取ってしまい、朝廷に納められるのは質の劣るものばかりになっていたことが記されています。
朝廷は、こうした私的な取引を禁止する命令を出しました。
しかも、それ以前にも禁止していたにもかかわらず、取引が続いていたのです。
ここに、非常に興味深い事実があります。
朝廷が管理しようとしていた北方交易には、朝廷自身の命令だけでは抑えられない経済活動が存在していたのです。
北方の人々は、単に朝廷へ貢ぎ物を届けるだけの存在ではありませんでした。
都の有力者たちが欲しがる品物を持ち、それを交換する相手でもあったのです。
交易を通じて、人々が独自の関係を築いていた様子が見えてきます。
秋田城は、交易を始めた場所だったのか
ここで考えたいことがあります。
秋田城が設置されたことで、初めて北海道と本州の交流が始まったのでしょうか。
それは違うでしょう。
秋田城が設置される以前から、北海道と東北地方の間には人や物資の移動がありました。
北海道では、東北地方に由来する鉄製品や土器が出土しています。
さらに時代を遡れば、縄文時代には北海道と本州の間で黒曜石や翡翠などが移動していました。
つまり、秋田城ができるよりもはるか以前から、北の海を越える交流が存在していたのです。
朝廷は、すでに人々が行き来していた地域に政治的な拠点を設けたことになります。
ここで重要なのは、交易の存在と、その交易を管理する政治的な権力を分けて考えることです。
人々の交流は、必ずしも政治的な支配によって始まるわけではありません。
必要なものを求め、知識を交換し、暮らしを豊かにしようとする行動から生まれることもあります。
そして、そこに大きな利益が生まれると、権力を持つ人々が関わるようになる。
秋田城の歴史は、その関係を考える重要な手がかりになっています。
奥州藤原氏も、北方交易とつながっていた
時代を少し進めてみましょう。
11世紀から12世紀にかけて、東北地方では安倍氏、清原氏、そして奥州藤原氏が大きな勢力を築きました。
特に平泉を拠点とした奥州藤原氏は、京都にも匹敵するほどの豊かな文化を生み出しました。
その繁栄を支えたものとして、金の産出や農業生産が知られています。
しかし、それだけではありません。
奥州藤原氏の勢力は、津軽方面にも及んでいました。
津軽の外ヶ浜は、北海道との交流につながる重要な場所だったと考えられています。
ここで、日本海側の交通路に注目してみます。
越後から出羽へ。
出羽から津軽へ。
津軽から北海道へ。
そして、津軽から東北の内陸へ。
こうした海と川、陸上交通のつながりを考えると、平泉の繁栄を内陸だけで説明することはできません。
奥州藤原氏は、北方と西日本を結ぶ広域的な交流網の中に位置していたのです。
では、奥州藤原氏が滅亡すると、それまでの交易網も消えてしまったのでしょうか。
十三湊の歴史を見る限り、そうではありませんでした。
政治的な支配者が変わっても、海を行き来する人々の交流は続き、新たな勢力がその交通路を利用していきました。
支配者が変わっても、海の道は残る
ここで、秋田城、奥州藤原氏、十三湊の安藤氏を並べてみましょう。
それぞれ、活動した時代も政治的な立場も異なります。
秋田城は朝廷が設けた拠点でした。
奥州藤原氏は東北地方に独自の政治的・経済的な基盤を築きました。
安藤氏は十三湊を拠点として、日本海と北方の交流に深く関わりました。
しかし、共通するものがあります。
それは、北方からもたらされる物資と、それを運ぶ人々の存在です。
朝廷も、奥州藤原氏も、安藤氏も、北方との関係を無視することはできませんでした。
政治的な勢力は入れ替わります。
戦争によって拠点を失うこともあります。
それでも、北方の海産物や毛皮を必要とする人々がいて、本州の鉄製品や生活用品を求める人々がいる限り、交易を続けようとする動きは残ります。
政治の歴史では支配者が主役になりますが、交易の歴史では、海を渡り続けた人々もまた主役なのです。
越は、この交流網の中で何を担っていたのか
ここで、今回の出発点だった越へ戻りましょう。
越は、日本海に面した広い地域です。
そこには、能登半島のように海へ突き出した土地があり、越後平野のように大きな河川が流れる土地もあります。
内陸には山々が広がり、川を遡れば山間部へ向かうことができます。
海、川、山。
それぞれの土地に異なる資源があり、異なる技術を持つ人々が暮らしていました。
縄文時代には、糸魚川周辺の翡翠が遠隔地へ運ばれました。
古代には、越の地域が朝廷と北方世界を結ぶ重要な位置を占めるようになります。
中世には、能登の珠洲焼が津軽の十三湊まで運ばれました。
もちろん、これらは同じ人々が何千年も同じ交易を続けたという意味ではありません。
時代ごとに社会も技術も変わり、交易を担う集団も変化したはずです。
しかし、日本海という交通空間が繰り返し利用されていたことは見逃せません。
ここに一つの疑問があります。
越は、単に品物が通過する地域だったのでしょうか。それとも、人と物資を結びつける重要な役割を担っていたのでしょうか。
品物をつくる人。
船を建造する人。
航路を知る人。
遠方の取引相手を知る人。
交易には、さまざまな技術と経験が必要です。
越の力を考えるとき、土地の豊かさだけではなく、こうした人々の能力と交流関係にも注目する必要がありそうです。
海を越えた人々は、何を持っていったのか
もう一度、安藤氏が北海道へ渡った出来事を考えてみます。
彼らが持っていったものは、家財道具や食料だけだったのでしょうか。
おそらく、それだけではなかったはずです。
航路についての知識。
交易相手との関係。
物資を集める方法。
船を動かす人々とのつながり。
そして、それまでに築いてきた信用。
こうしたものも、一緒に移動したのではないでしょうか。
ここで考えたいのは、技術や知識が人間とともに移動するということです。
職人が移り住めば、ものづくりの技術も移動します。
船乗りが移れば、航海の知識も移動します。
商人が移れば、取引相手との関係も新しい土地へ広がる可能性があります。
これは中世だけの話ではありません。
古代の人々の移動を考える場合にも、同じ視点が役立ちます。
ある地域で突然、新しい技術や文化が現れたように見えても、その背景には人々の長い交流や移住があったのかもしれません。
そして、そうした交流は、歴史書に名前が残る支配者だけによって行われていたわけではないでしょう。
歴史に名前が残らなかった人々
十三湊の遺跡には、道路や建物、陶磁器、さまざまな生活の痕跡が残されています。
しかし、その町で働いていた人々の多くは、歴史書に名前を残していません。
船を操っていた人は、誰だったのでしょうか。
能登から珠洲焼を運んだ人は、どんな航路を使っていたのでしょうか。
北海道から毛皮を持ってきた人々は、どこで船を出していたのでしょうか。
港で修理をしていた職人は、どこから来たのでしょうか。
こうした疑問のすべてに答えがあるわけではありません。
それでも、発掘された品々は、名も残らなかった人々が確かに存在していたことを教えてくれます。
一つの器が遠く離れた土地から出土する。
その背景には、つくった人がいて、運んだ人がいて、受け取った人がいます。
さらに、その器を日々の暮らしの中で使った人もいたはずです。
出土品は、物の移動を示すと同時に、人々の営みを考える入口にもなるのです。
日本海は、地域を隔てる海だったのか
現在の地図を見ると、本州と北海道は海によって隔てられています。
しかし、船を使って暮らしていた人々にとって、海は必ずしも隔たりではなかったでしょう。
むしろ、遠く離れた土地を結ぶ交通路でもありました。
陸路で山を越え、長い距離を移動するよりも、海路の方が大量の物資を運びやすい場合があります。
もちろん、日本海は穏やかな海ばかりではありません。
冬には厳しい季節風が吹き、波も高くなります。
安全に航海するには、風向きや潮流、季節、寄港地などを知る必要があります。
だからこそ、長年の経験を持つ船乗りや、港ごとの情報を知る人々が重要だったのでしょう。
日本海を移動する技術そのものが、価値ある知識だったのです。
そして、その知識は一つの地域だけで完成するものではありません。
異なる港を訪れ、異なる人々と交流することで、少しずつ蓄積されていったはずです。
海は人々を隔てる境界であると同時に、人々を結びつける道でもありました。
越の歴史を、もう一度考える
ここまで見てきた十三湊、秋田城、奥州藤原氏の歴史には、一つの共通した問題があります。
それは、政治的な支配と、人々の交流をどのように区別して考えるかという問題です。
歴史書には、誰がどの土地を支配したか、どこで戦争が起きたか、誰が勝ったかという出来事が多く残されています。
しかし、その土地で暮らす人々が、それ以前からどのような交流を続けていたのかについては、十分に記録されていないこともあります。
越の古代史を考えるときにも、同じことが言えるのではないでしょうか。
朝廷がどの地域へ勢力を広げたのか。
どの人物が派遣されたのか。
どの土地が行政区画に組み込まれたのか。
そうした政治的な変化は重要です。
しかし、それだけで越の歴史が始まったわけではありません。
そこには、それ以前から海を渡り、川を遡り、山を越えて交流していた人々がいました。
彼らが築いた交通路や交易関係が、後の政治的な勢力に利用された可能性もあります。
支配者の名前を追うだけでは見えてこない歴史が、人々の移動と物資の流れを追うことで浮かび上がってくるのです。
敗れた一族が教えてくれたこと
最後に、十三湊を追われた安藤氏へ戻りましょう。
1432年、安藤氏は南部氏との争いに敗れ、北海道へ渡りました。
一度は十三湊へ戻りましたが、1442年に再び敗れ、北海道へ退きました。
そして、中世日本海交易の重要拠点だった十三湊は、15世紀半ばにかけて衰退していきました。
しかし、安藤氏の歴史そのものが、そこで終わったわけではありません。
その後も安藤氏の系統は北方で活動し、出羽の秋田方面へ勢力を広げていくことになります。
故郷の港を失っても、人々が築いてきた関係や経験まで消えたわけではなかったのでしょう。
ここに、今回の歴史探訪で最も考えたいことがあります。
土地を支配することと、その土地を通じて人々を結びつけることは、同じではありません。
港を手に入れても、交易の仕組みを簡単に引き継げるとは限りません。
反対に、土地を失っても、長年の交流によって築いた人間関係が、新しい土地で生きる力になることがあります。
これは、古代の越についても考えさせられる問題です。
越の人々は、どこから来たのでしょうか。
どの地域と交流していたのでしょうか。
そして、その交流によって得た知識や技術は、どのような形で次の時代へ伝わっていったのでしょうか。
十三湊の遺跡は、そうした疑問を考えるための重要な手がかりを与えてくれます。
歴史を動かしていたのは、戦いに勝った人々だけではありません。
海を渡り、物をつくり、運び、交換し、新しい土地でも生きようとした人々もまた、歴史を動かしていたのです。
日本海を舞台にした長い交流の歴史。
その中で越が果たした役割について、これからも一つずつ手がかりを追いかけていきたいと思います。