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北畠顕家とその一族【第9回】

2015.08.17

奥州への帰還と新たな危機

一度は勝利した顕家が、なぜ再び戦わなければならなかったのか

1336年、北畠顕家は第一次西上を終え、奥州へ戻りました。

奥州から率いてきた軍勢は、新田義貞や楠木正成らとともに足利尊氏を九州へ退かせることに成功していました。

しかし、顕家が戻った奥州では、新たな危機が近づいていました。

尊氏は九州で勢力を立て直し、京都を奪還します。

後醍醐天皇は吉野へ移り、南北朝の対立が始まりました。

この中央政治の変化は、遠く奥州にも影響を及ぼします。

1333年に始まった北畠顕家の奥州統治は、新しい政権の地方行政から、足利方に対抗するための軍事的な活動へと性格を変えていきました。

一度は戦いに勝った顕家が、なぜ再び戦わなければならなかったのでしょうか。

顕家の帰還は、戦いの終わりではなかった

第一次西上に成功した顕家は、京都方面にとどまるのではなく、奥州へ戻りました。

奥州には、まだ解決していない問題が数多く残されていました。

建武政権の統治が十分に定着していたとは限りません。

土地をめぐる争いも続いていたでしょう。

足利方に協力する武士たちも存在していました。

そして、遠征に参加した武士たちは、それぞれ自分たちの領地へ戻る必要がありました。

遠征軍を解散し、地域の政治を再び安定させることも重要な仕事だったと考えられます。

ただし、当時の奥州におけるすべての行政状況が詳しく記録されているわけではありません。

政治的な動きを確認するには、顕家の発給文書や武士たちの軍忠状、土地関係の史料などを読み合わせる必要があります。

顕家が帰還したという事実だけで、奥州が安定していたとも、完全な混乱状態だったとも決めることはできないのです。

足利方の勢力が奥州へ広がる

中央で尊氏の勢力が拡大すると、奥州でも足利方に属する武士たちが活動を強めます。

その中心人物の一人が斯波家長でした。

斯波氏は足利氏の一門にあたる有力な武家です。

家長は、奥州における足利方の勢力拡大に重要な役割を果たしました。

しかし、家長が奥州へ進出したからといって、すべての武士が直ちに足利方へ従ったわけではありません。

奥州には伊達氏や結城氏をはじめ、顕家を支持する勢力も残っていました。

同じ地域の中で、異なる政治的立場の武士たちが対立するようになります。

これは、領地を守る人々にとって深刻な問題でした。

足利方に従えば、北畠顕家を支持する武士たちと対立する可能性があります。

顕家を支え続ければ、足利方の攻撃を受ける危険があります。

そして、どちらの側に立っても、必ず勝利できる保証はありません。

一族の将来は、こうした不確かな情勢の中で決まっていきました。

政治的な権威だけでは守れなくなった多賀城

多賀城は古代以来、奥州統治の中心として知られた場所でした。

建武政権も、その歴史的な意味を持つ土地を利用し、新しい統治体制を築こうとしました。

しかし、政治的な権威があることと、軍事的に安全であることは別の問題です。

敵対する勢力が周辺に進出すれば、政治拠点は攻撃の対象になります。

また、周辺地域の武士たちが協力しなくなれば、兵士や食料を集めることも難しくなります。

多賀城を維持するためには、単に守備兵を置くだけでなく、周辺の勢力との関係を保つ必要がありました。

足利方の勢力が拡大する中で、顕家たちが多賀城を拠点とし続けることは次第に困難になったと考えられます。

その結果、1337年1月、顕家と義良親王は霊山へ移りました。

この移転は、前回の遠征での勝利が、奥州の政治的な安定につながらなかったことを示しています。

奥州の武士たちは、再び選択を迫られた

1333年に顕家が奥州へ下ったとき、多くの武士たちは新しい政治体制に向き合う必要がありました。

1336年から1337年にかけて、彼らは再び大きな選択を迫られます。

今度は、北畠顕家を支持するのか、足利方に従うのかという問題です。

しかし、この選択を単純な忠義の有無で判断することはできません。

武士たちには守るべき土地がありました。

家族や家臣もいました。

一族の内部で意見が一致していたとも限りません。

例えば、ある一族の当主が顕家を支持していても、別の系統の親族が足利方へ加わることはあり得ます。

中世の武士団は、現代の会社や軍隊のように、常に一つの指揮系統で統一されていたわけではありません。

血縁、所領、婚姻、主従関係などが複雑に重なっていました。

そのため、一族全体の行動と個々の武士の判断は、区別して考える必要があります。

顕家は誰を頼ることができたのか

奥州での政治的な基盤が揺らぐ中でも、顕家には協力する武士たちがいました。

結城宗広。

伊達行朝。

そして、奥州各地で顕家側を支えた人々です。

彼らの存在は、顕家が霊山へ拠点を移し、その後も軍事行動を続けるうえで重要だったと考えられます。

しかし、頼れる武士がいることと、奥州全域を自由に統治できることは違います。

戦乱が長引けば、協力する側の武士たちにも負担が増えます。

兵を出せば、領地の防衛に使える人員が減ります。

戦いが続けば、物資の確保も難しくなる可能性があります。

顕家の軍事行動は、協力者たちの支援なしには成り立ちませんでした。

同時に、協力者たちも顕家の政治的な権威や軍事力を必要としていた可能性があります。

両者の関係は、一方的に命令する者と従う者というだけでは説明できないのです。

第二次西上という選択

1337年、後醍醐天皇の南朝は、京都を奪還するための軍事力を必要としていました。

新田義貞は北陸方面で戦いを続けています。

しかし、楠木正成はすでに湊川で戦死していました。

南朝側にとって、奥州の軍事力は重要な存在でした。

顕家は再び西へ向かうことになります。

第二次西上です。

ここで考えたいことがあります。

顕家が奥州に残り、現地の勢力を守り続けるという選択はなかったのでしょうか。

それとも、京都方面の足利勢力を破らなければ、奥州の状況も改善しないと考えたのでしょうか。

後醍醐天皇からの要請が、どの程度顕家の判断を左右したのかも重要です。

遠征の背景には、南朝全体の軍事戦略と、顕家が置かれた奥州の現実が重なっていました。

顕家の内面を直接示す記録は限られています。

そのため、どの理由が最も大きかったかを断定することはできません。

しかし、二度目の遠征が第一次西上とは異なる厳しい情勢の中で行われたことは明らかです。

出陣を繰り返す人々の負担

第一次西上から帰還した武士たちは、再び遠征に参加することになりました。

長距離の進軍には、体力と物資が必要です。

馬は継続的な飼育と補給が必要です。

武器の修理や交換も欠かせません。

遠征が長引けば、兵士たちが故郷へ戻れない期間も長くなります。

また、戦いで負傷した人々が、以前と同じように活動できたとも限りません。

これらは中世の遠征軍が一般的に直面する問題ですが、顕家軍の個々の兵士について具体的な状況を知ることは難しいところです。

それでも、数年の間に二度も大規模な遠征を行うことが、奥州の武士団に相当な負担を求めたことは考えられます。

顕家の第二次西上を検討するときには、その背後にある人々の負担も見なければなりません。

顕家が奥州を離れた後

第二次西上によって、顕家は再び奥州を離れます。

しかし、奥州の戦いは終わりませんでした。

足利方の勢力は活動を続け、顕家側の人々も各地で抵抗を続けます。

顕家が遠征に成功すれば、奥州の政治情勢にも変化が生じたかもしれません。

しかし、もし遠征に失敗すれば、奥州に残された勢力はどうなるのでしょうか。

結城氏や伊達氏など、顕家を支持する武士たちの将来にも影響が及びます。

顕家の遠征は、本人の命だけを懸けた行動ではありませんでした。

ともに戦う人々と、奥州に残る人々の運命にも関わる決断だったのです。

二度目の出陣を前にして

1337年、顕家は霊山から再び西へ向かいました。

第一次西上の頃とは政治情勢が変わっていました。

足利尊氏は京都を掌握し、北朝を支える立場にありました。

南朝は吉野を拠点に戦いを続けています。

新田義貞は北陸にいました。

奥州でも足利方が勢力を広げていました。

顕家は、これらの状況の中で京都奪還を目指すことになります。

一度目の遠征で経験した成功が、二度目にも通用するとは限りません。

戦う相手も、協力する武士たちの状況も変化していました。

それでも顕家は出陣しました。

その軍勢は、再び関東を目指して進んでいきます。

次回は「第二次西上、再び戦場へ」。

1337年に奥州を出発した顕家軍は、関東で足利方と戦い、鎌倉を攻略します。

しかし、その軍勢には、前回とは異なる事情を抱えた人々が加わっていました。

奥州から鎌倉へ。

顕家の二度目の遠征を、進軍経路と参加した武士たちの視点から追っていきます。

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