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北畠顕家とその一族【第3回】

2015.08.11

父・北畠親房と後醍醐天皇

信頼と対立の狭間で、北畠一族が選んだ道

1333年、鎌倉幕府が滅亡しました。

約140年にわたって続いた武家政権が終わり、後醍醐天皇による新しい政治が始まります。

この大きな転換期に、再び朝廷の政治へ関わることになった人物がいました。

北畠親房(きたばたけ ちかふさ)。

北畠顕家の父です。

親房は、後醍醐天皇から厚い信任を受けた公卿でした。しかし、天皇の考えに常に賛成していたわけではありません。

政治のあり方について、二人の考えには違いがありました。

それでも親房は後醍醐天皇を支え、やがて自らの息子たちも南北朝の戦乱に深く関わることになります。

なぜ親房は、意見の異なる後醍醐天皇を支え続けたのでしょうか。

そして、なぜ北畠一族は朝廷の政治だけでなく、遠く奥州の統治や戦場まで担うことになったのでしょうか。

父と天皇の関係をたどることで、北畠顕家の運命を変えた政治的背景が見えてきます。

後醍醐天皇が即位する以前からの関係

北畠親房は1293年、北畠師重の子として生まれました。

北畠家は村上源氏の流れをくむ公家の家柄です。

親房が生まれた鎌倉時代後期、朝廷では持明院統と大覚寺統という二つの皇統が皇位をめぐって並び立っていました。

北畠家は、大覚寺統との関係が深い一族でした。

そのため、後醍醐天皇と親房の関係は、1318年の即位によって突然始まったものではありません。

北畠家が代々築いてきた皇統との結びつきが、その背景にありました。

1318年、後醍醐天皇が即位します。

親房は吉田定房、万里小路宣房とともに「後の三房」と呼ばれる重臣の一人として知られています。

ただし、後の三房という呼び名だけで、三人が常に同じ政治的立場にあったと考えることはできません。

それぞれに家の歴史があり、朝廷内での役割も異なっていました。

親房の場合、特に重要だったのが皇子の養育です。

世良親王と北畠親房

後醍醐天皇は、皇子である世良親王(ときよししんのう)の養育を親房に任せました。

世良親王は、後醍醐天皇が将来を期待していた皇子の一人です。

親房にとって皇子の養育は、単なる教育係という職務ではありませんでした。

皇子がどのような知識を身につけ、どのような人物として成長するかは、将来の朝廷政治にも関わる問題でした。

親房は、皇室の次の世代を育てる立場にあったのです。

しかし1330年、世良親王が若くして亡くなります。

親房は、この出来事をきっかけに出家しました。

当時38歳とされる親房は、一度政治の第一線から退くことになります。

親房がどれほど深く悲しんだのか、その感情のすべてを知ることはできません。

しかし、重要な役割を担っていた皇子の死が、親房の人生に大きな転機をもたらしたことは確かです。

ここで考えたいことがあります。

皇子を失った親房と、息子を失った後醍醐天皇。

二人は同じ出来事に直面しながら、その後、それぞれ異なる道を歩み始めました。

後醍醐天皇は鎌倉幕府との対立を深めていきます。

一方、親房は出家し、後醍醐天皇による倒幕運動の中心には加わっていなかったと考えられています。

後に南朝を支えることになる親房が、最初から倒幕運動の中心人物だったわけではないのです。

後醍醐天皇が目指した政治とは

後醍醐天皇は、鎌倉幕府の存在によって制約されていた朝廷の政治的権限を取り戻そうとしました。

しかし、その政治構想を単純に「昔の天皇中心の政治へ戻すこと」と説明するだけでは不十分です。

当時の朝廷には、長年にわたり積み重ねられた制度や慣習がありました。

一方、幕府は土地の支配や武士たちの紛争処理など、現実の社会を動かす仕組みを持っていました。

後醍醐天皇が全国を統治するには、武家政権を倒すだけでなく、これらの機能を新しい政治体制の中で担う必要がありました。

また、幕府打倒に協力した武士たちは、それぞれ異なる期待を抱いていました。

領地の安堵を望む者。

戦功に対する恩賞を求める者。

自分たちの地域における立場を守ろうとする者。

新しい政治体制に期待する者がいる一方で、従来の権利を失うことを恐れる人々もいました。

後醍醐天皇は、こうした異なる立場を持つ人々をまとめなければなりませんでした。

そして親房もまた、この新しい政治のあり方について独自の考えを持っていた人物でした。

幕府の仕組みをどう考えるか

北畠親房と後醍醐天皇の関係を考えるうえで興味深いのが、武家による統治制度への認識です。

親房は公家の立場にありながら、武士たちの社会を統治するための制度が必要であることを理解していたと考えられています。

武家政権を倒したからといって、武士の存在そのものが消えるわけではありません。

武士たちは引き続き各地で土地を管理し、地域の秩序を維持する役割を担っていました。

朝廷が新しい政権を築くのであれば、その力をどのように取り込むかが重要になります。

親房の政治思想については、後年に著した『神皇正統記』などからも検討できます。

ただし、後年の著作に見える考えを、そのまま1333年当時の親房の考えとして扱うことには注意が必要です。

親房自身も、戦乱の中で多くの経験を重ねています。

考え方がどのように変化したのかという問題も、歴史を読み解くうえでは重要です。

そして、親房の現実的な政治認識を考えるうえで注目したいのが、奥州への派遣でした。

鎌倉幕府の滅亡と親房の復帰

1331年、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、元弘の乱が始まります。

後醍醐天皇は幕府に捕らえられ、翌1332年には隠岐へ流されました。

しかし、各地で幕府に対する反乱が続きます。

1333年、足利高氏(後の尊氏)が六波羅探題を攻撃し、新田義貞が鎌倉を攻略しました。

鎌倉幕府は滅亡します。

後醍醐天皇は京都に戻り、建武の新政を始めました。

このとき、出家していた北畠親房も再び政治に関わることになります。

一度は皇子の死をきっかけに出家した人物が、新しい政治体制の成立によって再び表舞台へ戻ったのです。

ただし、親房が復帰したからといって、後醍醐天皇と政治的な考えを完全に共有していたとは限りません。

後に親房が残した文章には、建武政権の政治に対する批判も見られます。

それでも親房は、後醍醐天皇の政権を支える立場を選びました。

ここに、親房という人物を理解するための重要な問題があります。

政治的な考えが異なることと、政権そのものを支持することは、必ずしも矛盾しません。

親房が守ろうとしたものは、後醍醐天皇個人の政治判断だけではなかった可能性があります。

皇位継承の正統性、朝廷の秩序、そして北畠家が長年関わってきた皇統との関係。

そうしたものを含めて、親房の行動を考える必要があります。

なぜ奥州に皇子を送ったのか

建武の新政が始まると、後醍醐天皇は全国の統治体制を整えようとします。

その中で、奥州と関東は特に重要な地域でした。

関東には、長年にわたって鎌倉幕府の政治・軍事の中心が置かれていました。

幕府が滅亡しても、関東から旧幕府の影響力が完全に消えたわけではありません。

一方、奥州は広大な地域であり、各地に独自の勢力を持つ武士たちが存在していました。

京都からの命令だけで安定した統治を実現することは困難でした。

こうした中で、後醍醐天皇は皇子を東国へ派遣する政策を進めます。

関東には成良親王(なりよししんのう)が下り、足利直義らがその政治を支えました。

そして奥州には、義良親王(のりよししんのう)が派遣されることになります。

その義良親王を支える役割を担ったのが、北畠顕家と父・親房でした。

ここで注目したいのは、奥州と関東にそれぞれ皇子を配置したことです。

皇子の存在は、地方の統治に朝廷の権威を与える意味を持っていました。

しかし、皇子だけで政治や軍事を動かすことはできません。

その周囲には、実際の政務を担う人物や、現地の武士たちとの関係を築く人物が必要でした。

奥州において、その中心的な役割を期待されたのが北畠父子だったのです。

北畠家は武家ではなかった

北畠顕家は1333年、陸奥守に任じられました。

当時16歳でした。

そして同年10月、義良親王と父・親房らとともに奥州へ向かいます。

ここで重要なのは、北畠家がもともと武家として成長してきた一族ではなかったということです。

北畠親房の著した『神皇正統記』には、武事を専門としてこなかった北畠家が、奥州で軍事的な役割まで担うことになった経緯が記されています。

この記述からは、奥州への派遣が北畠家にとって従来の家職を超える任務だったことがうかがえます。

それまで朝廷の政治や儀礼に関わってきた一族が、武士たちを率いる立場に変わろうとしていたのです。

しかも、その中心となる顕家はまだ16歳でした。

父・親房が同行したことを考えると、実際の統治には親房の経験や政治的判断が大きく関わったと考えられます。

しかし、親房がどこまで直接指揮し、顕家がどの程度自ら判断していたのかは、個々の史料に基づいて検討する必要があります。

官職の上で責任者だったことと、日々の実務をすべて一人で行っていたことは同じではありません。

また、北畠父子だけで奥州を統治できたわけでもありません。

現地の武士や行政を担う人々の協力が不可欠でした。

父は息子に何を託したのか

親房は1293年生まれ。

顕家は1318年生まれ。

奥州へ向かった1333年、親房は41歳、顕家は16歳でした。

父と息子の間には、約25年の年齢差があります。

親房は朝廷の政治を経験し、皇子の養育を任され、出家と政界復帰という人生の転機を経ていました。

一方の顕家は、宮廷社会で異例の昇進を重ねてきたものの、地方統治や軍事指揮については、これから経験を積む立場でした。

父の目に、息子はどのように映っていたのでしょうか。

顕家本人は、奥州への赴任をどのように受け止めていたのでしょうか。

残された史料から、親子の会話や胸の内を直接知ることはできません。

しかし、二人が同じ任務を担い、京都を離れて奥州へ向かったことは確かです。

そこには単なる親子関係を超えた、政治上の運命共同体としての関係が生まれていました。

顕家が後に軍勢を率いて戦うことになる背景には、父・親房の存在だけでなく、この奥州での経験があったと考えられます。

信頼していても、同じ考えとは限らない

北畠親房は、後醍醐天皇を支え続けました。

しかし、後年の『神皇正統記』には、後醍醐天皇の政治に対する批判も記されています。

特に、人事や武士への恩賞などをめぐって、親房には独自の見解がありました。

この点は、息子・顕家の生涯にもつながる重要な問題です。

顕家もまた、後醍醐天皇のために戦いながら、その政治を批判する諫奏文を残したと伝えられています。

親房と顕家の政治思想がどこまで一致していたのか、父から息子へ何が受け継がれたのか。

それを判断するには、それぞれの文章が書かれた時期や政治情勢を照らし合わせる必要があります。

ただ、一つ注目できることがあります。

北畠父子は、後醍醐天皇を支える立場にありながら、政治に対して自分たちなりの考えを持っていたということです。

忠誠とは、相手のすべての判断に無条件で従うことだったのでしょうか。

それとも、政権を支えるからこそ、誤りと思うことに意見を述べる必要があったのでしょうか。

この問いは、顕家の最期に至るまで追い続けたいテーマです。

奥州への旅が変えた北畠一族の運命

1333年、北畠親房と顕家は義良親王を奉じて奥州へ向かいました。

そのとき、親房は41歳、顕家は16歳、義良親王は幼い皇子でした。

京都の公家と皇子が、遠く離れた奥州へ向かう。

そこには、新しい政治体制を地方に根づかせようとする後醍醐天皇の構想がありました。

しかし、奥州は朝廷の命令だけで動く土地ではありませんでした。

各地の武士には、それぞれの歴史と利害がありました。

北畠父子は、そうした人々と向き合いながら、政治と軍事の両面で新しい役割を担うことになります。

やがて顕家は奥州の軍勢を率い、足利尊氏と戦うことになります。

父・親房もまた、戦乱の中で南朝の政治を支える人物となっていきます。

その後の歴史を知る私たちは、顕家が21歳で戦死することを知っています。

しかし、1333年に奥州へ向かった人々には、まだその未来は見えていませんでした。

彼らは、それぞれの立場で新しい政治体制の実現を目指していました。

そして、その選択が北畠一族の運命を大きく変えることになります。

次回は「16歳の少年が奥州へ向かった理由」。

義良親王を中心とする奥州の政治体制は、どのような仕組みで動いていたのでしょうか。

北畠顕家は、実際にどのような権限を持ち、誰に支えられながら統治を始めたのでしょうか。

多賀城を拠点とした奥州の政治構想と、その現実に迫ります。

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