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北畠顕家とその一族【第2回】

2015.08.10

北畠一族のルーツを探る

京都の公家から、戦乱の時代を動かす一族へ

北畠顕家は、なぜ16歳という若さで奥州の統治を任されたのでしょうか。

その理由を探るには、顕家本人の才能や父・北畠親房の功績だけでなく、北畠一族が歩んできた歴史を知る必要があります。

そもそも、北畠氏とはどのような一族だったのでしょうか。

後に奥州や伊勢で軍勢を率いた北畠氏ですが、その出発点は武士の一族ではありませんでした。

京都の朝廷に仕える公家の家系です。

北畠家の歴史をさかのぼると、平安時代の皇族にまで行き着きます。

そして、その血筋以上に重要なのが、代々の当主が朝廷の中で築いてきた人間関係でした。

村上天皇につながる北畠家の系譜

北畠氏は、村上源氏の流れをくむ一族です。

村上源氏とは、第62代村上天皇の皇子である具平親王(ともひらしんのう)の子、源師房(みなもとのもろふさ)を祖とする源氏の一系統です。

源氏という名前から源頼朝や源義経を思い浮かべるかもしれません。

しかし、頼朝や義経が属する清和源氏と、北畠氏が属する村上源氏は異なる系統です。

同じ源氏でも、その後に歩んだ道は大きく違いました。

武士として勢力を広げた家系がある一方、村上源氏には朝廷の高官を輩出し、公家社会の中で地位を築いた家系がありました。

北畠氏も、その一つでした。

北畠家につながる系譜には、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて朝廷で大きな影響力を持った源通親(みなもとのみちちか)が登場します。

源通親は、後鳥羽天皇の時代に朝廷政治の中心で活躍した人物です。

鎌倉幕府が成立した時代、朝廷の内部でも政治的な主導権をめぐる動きが続いていました。

武家政権が誕生したからといって、公家たちの政治が消えたわけではありません。

朝廷には朝廷の秩序があり、官職、家格、婚姻関係、天皇や上皇との結びつきが、人々の立場を大きく左右していました。

北畠家は、そうした世界の中で成立した一族だったのです。

「北畠」という名前はどこから来たのか

北畠家の祖とされるのが、北畠雅家(きたばたけ まさいえ)です。

1215年に生まれた雅家は、中院通方(なかのいん みちかた)の子で、鎌倉時代に権大納言まで昇進した公卿でした。

雅家が京都の洛北にある北畠の地に住んだことから、北畠を家名とするようになったと伝えられています。

つまり、北畠という名前は、最初から奥州や伊勢の土地に由来していたわけではありません。

京都の居住地に由来する名前だったのです。

後世、北畠氏は伊勢国司として知られるようになります。

さらに、北畠顕家の活躍によって、奥州の歴史にも深く関わることになります。

しかし、その一族の名前が生まれた場所は京都でした。

ここに、北畠氏の歴史を考えるうえで興味深い特徴があります。

一族の発祥地と、後に活動の中心となった地域が大きく異なっているのです。

どうして京都の公家が、遠く離れた地方の政治や軍事を担うようになったのでしょうか。

その変化を生み出したのが、鎌倉時代末期の政治情勢でした。

雅家から親房へ、受け継がれたもの

北畠雅家の後、家系は師親(もろちか)、師重(もろしげ)、そして親房(ちかふさ)へと続きます。

雅家、師親、師重はいずれも公卿として高い官位に昇りました。

北畠家は一代限りの成功によって突然有力になったのではありません。

何代にもわたり、朝廷の中で地位を築いてきた家でした。

ただし、高い官位に就いていたことと、政治の実権を握っていたことは同じではありません。

鎌倉時代の朝廷には多くの公家が存在し、それぞれの家が複雑な関係を持っていました。

その中で北畠家の運命を大きく変えたのは、天皇家との結びつきでした。

当時、皇位継承をめぐって、持明院統と大覚寺統という二つの皇統が並び立っていました。

持明院統は後深草天皇の系統、大覚寺統は亀山天皇の系統です。

両統の間では皇位継承をめぐる対立が続き、鎌倉幕府もその調整に関わっていました。

北畠家は、師親や師重の時代から大覚寺統との関係を深めていったとされています。

これは、後の北畠一族の進路を考えるうえで重要な点です。

顕家が生まれる以前から、北畠家は後醍醐天皇につながる皇統と関係を築いていたのです。

後醍醐天皇と北畠親房

1293年、北畠親房が生まれました。

そして1318年、後醍醐天皇が即位します。

同じ年、親房の長男として北畠顕家が誕生しました。

顕家が生まれた時代は、朝廷にとって大きな転換期でした。

父・親房は後醍醐天皇の信任を受け、政治の中枢に関わるようになります。

後に親房は、万里小路宣房(までのこうじ のぶふさ)、吉田定房(よしだ さだふさ)とともに「後の三房」と呼ばれる重臣の一人として知られるようになりました。

しかし、親房と後醍醐天皇の関係を、単に主君と忠臣という言葉だけで説明することはできません。

親房は、後醍醐天皇の皇子である世良親王(ときよししんのう)の養育にも深く関わっていました。

世良親王は、後醍醐天皇が将来を期待していた皇子の一人でした。

皇子の教育を任されるということは、政治的な信頼だけでなく、皇室の将来にも関わる立場にあったことを意味します。

ところが1330年、世良親王が若くして亡くなります。

親房はその死後、出家しました。

親房が世良親王の死を深く悲しんだことは伝えられていますが、その心情をどこまで具体的に知ることができるかは、史料に即して慎重に考える必要があります。

それでも、皇子の死が親房の人生にとって重要な出来事であったことは確かでしょう。

ここで一つの疑問が生まれます。

世良親王の死によって一度は政治の第一線から離れた親房が、なぜ後に再び後醍醐天皇の政権を支えることになったのでしょうか。

この問題は、次回の重要なテーマとなります。

北畠家に生まれた顕家

1318年に生まれた顕家は、父・親房が後醍醐天皇の側近として活躍する環境で成長しました。

幼い頃から朝廷の儀礼や官職に接し、宮廷社会の秩序の中で育ったと考えられます。

顕家は少年時代から異例の昇進を重ねました。

1330年には13歳で左中弁となり、1331年には14歳で参議に昇進しています。

その若さで高位の官職に就いた背景には、本人の資質に対する評価だけでなく、北畠家の家格や父・親房の政治的な立場、後醍醐天皇の意向も関係していたと考える必要があります。

現代の感覚では、13歳や14歳で重要な政治的地位に就くことは想像しにくいかもしれません。

しかし、当時の公家社会では、家柄や宮廷内での立場が昇進に大きく影響していました。

若くして官職に就くこと自体が、その人物の政治的な経験や実務能力の完成を意味するわけではありません。

だからこそ、顕家のその後の行動が興味深いのです。

朝廷で育った少年が、やがて奥州の武士たちを率いて戦場へ向かいます。

宮廷における地位と、戦場で人々を動かす力は同じではありません。

顕家は、どのようにしてその二つの世界を結びつけていったのでしょうか。

一族の歴史は、血筋だけでは説明できない

ここまで北畠家の系譜を追ってきました。

村上天皇から続く皇族の血筋。

京都の公家として築いてきた地位。

大覚寺統との結びつき。

そして、後醍醐天皇に信任された父・親房の存在。

これらは、顕家が歴史の表舞台に登場する背景を考えるうえで重要です。

しかし、それだけで顕家の人生が決まったわけではありません。

同じ時代に生きた公家の子弟たちが、すべて軍勢を率いて戦場へ向かったわけではないからです。

北畠家の歴史をたどると、親房の子である顕家、顕信、顕能は、それぞれ異なる地域で南朝の政治や軍事に関わっていきます。

顕家は奥州から京都を目指し、顕信は奥州で戦い続け、顕能は伊勢を拠点とする北畠氏の歴史につながっていきます。

同じ家に生まれながら、異なる土地で異なる役割を担った兄弟たち。

その行動には、一族としての共通した目的があったのでしょうか。

それとも、それぞれの地域の情勢に応じて、異なる判断を重ねていったのでしょうか。

一族の歴史を理解するには、系図に記された親子関係だけでなく、各人が置かれた状況を見ていく必要があります。

京都から奥州へ、運命が動き始める

1333年、鎌倉幕府が滅亡しました。

後醍醐天皇は新しい政治体制の構築に着手します。

しかし、長く続いた武家政権の仕組みを変え、全国の武士たちを新しい政権の下にまとめることは容易ではありませんでした。

特に奥州は、京都から遠く離れた広大な地域です。

朝廷の官職を与えるだけでは、現地の武士たちを統治することはできません。

そのような土地に、後醍醐天皇は自らの皇子を送り、北畠親房と顕家を同行させることになります。

公家の名門に生まれ、宮廷で成長した顕家にとって、それは人生の大きな転機となりました。

しかし、なぜ北畠家だったのでしょうか。

後醍醐天皇の周囲には、ほかにも多くの公家や武士が存在していました。

その中で北畠親房と顕家が選ばれた理由は、家柄や忠誠心だけで説明できるのでしょうか。

義良親王を中心とする奥州の政治体制には、どのような構想があったのでしょうか。

そして父・親房は、まだ若い顕家に何を託そうとしていたのでしょうか。

次回は「父・北畠親房と後醍醐天皇」。

北畠家が建武政権の中核を担うまでの政治的な歩みと、二人の関係を詳しく追っていきます。

北畠顕家の運命を変えた奥州への旅は、突然始まったものではありません。

その背景には、顕家が生まれる以前から積み重ねられてきた、一族と朝廷の長い歴史がありました。

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