新田義興と矢口の渡し。沈められた舟、消えた渡し場、そして死後に神となった武将の謎【4】
対岸に待ち構えていた三百騎
『太平記』によれば、江戸遠江守らは、矢口の渡しの対岸に三百騎ほどの軍勢を配置していました。
さらに後方には、竹沢右京亮が多数の射手を用意していたとされています。
この配置が記述どおりだったなら、義興を討つ計画は、舟の沈没だけに頼るものではありませんでした。
舟が沈み始めれば、乗っている人々は混乱します。
川の中へ飛び込んでも、鎧や武器を身につけていれば動きにくくなります。
泳いで岸へ向かおうとしても、そこに敵が待ち構えていれば危険です。
反対側へ戻ろうとしても、射手が配置されていれば、退路が制限されます。
つまり、川の中にいる人々を、陸上の敵が取り囲むような状況だったと考えられます。
ただし、三百騎や百五十人という軍記の数字を、そのまま実際の動員数として確定することはできません。
また、当時の川幅や流路、舟が進んだ位置も正確には分かりません。
射手がどの程度の距離から攻撃したのか。
岸には、どのような地形があったのか。
木や草むらに軍勢を隠すことができたのか。
そうした点を確認するには、14世紀の多摩川の地形を考える必要があります。
そして、ここから現代の地図だけでは解けない、もう一つの謎が現れます。
義興が渡ろうとした多摩川は、現在どこにあるのか
現在、東京都大田区には「矢口の渡し跡」を示す史跡があります。
多摩川大橋の周辺です。
しかし、1358年に義興が渡ろうとした場所が、現在の史跡碑の位置と同じだったとは考えられていません。
当時の多摩川は、現在よりも東側へ大きく湾曲していたとされています。
その流れは、現在の新田神社の周辺にも及んでいたと考えられています。
つまり、義興が命を落としたと伝えられる場所は、現在の川岸から離れた住宅地の中にある可能性が高いのです。
初めてこの地域を訪れた人にとっては、不思議な光景かもしれません。
いま目の前に川がない場所が、かつては渡し場に近い場所だったというのです。
しかし、大きな河川は長い年月の中で流路を変えます。
洪水によって川が別の場所を流れることもあります。
土砂がたまり、川の一部が陸地になることもあります。
人々が堤防や水路を築き、土地を利用する中で、自然の地形も変わっていきます。
そのため、現在の橋や道路、堤防だけを見て、14世紀の戦場を復元することはできません。
義興の事件を考えるとき、まず疑うべきなのは、現在の地図がそのまま当時にも通用するという思い込みなのかもしれません。
十寄神社と妙蓮塚。なぜ家臣たちの墓が離れているのか
矢口の渡しの事件に関わる伝承は、新田神社だけに残っているわけではありません。
周辺には、義興とともに命を落とした家臣たちに関わる場所があります。
その一つが十寄神社です。
義興とともに舟に乗っていた家臣のうち、十人を祀ったと伝えられています。
また、下丸子には妙蓮塚があります。
こちらには、舟から川へ入り、対岸へ渡って敵と戦ったとされる三人の家臣が祀られています。
なぜ、十人と三人で、祀られる場所が違うのでしょうか。
伝承では、十人は舟の上で命を落とし、三人は対岸で戦死したとされています。
そのため、別々の場所で祀られるようになったというのです。
この伝承をそのまま史実と断定することはできません。
しかし、ここには興味深い手がかりがあります。
現在の妙蓮塚は、いまの多摩川の対岸にあるわけではありません。
ところが、かつての川の流れを考えると、伝承上の対岸に位置していた可能性が指摘されています。
つまり、現在では離れた場所に見える複数の史跡が、かつての河道を考えることで、互いに関係を持つ場所として見えてくるのです。
ただし、史跡の位置だけで伝承の細部を証明できるわけではありません。
塚や社が後世に移された可能性も考える必要があります。
それでも、地形と伝承を照らし合わせることで、新しい問いが生まれます。
なぜ、人々はこの場所に家臣たちを祀ったのでしょうか。
どの時代に、どのような経緯で現在の配置になったのでしょうか。
そして、その配置は、14世紀の多摩川について何を伝えているのでしょうか。