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新田義貞の死後、戦い続けた一族。弟・脇屋義助と二人の息子に残された歴史の謎【3】

2015.07.10

瀬戸内海の武士たち。陸とは異なる戦い

四国の戦いを考える上で、瀬戸内海の存在は欠かせません。

海は陸地を隔てるものですが、船を利用する人々にとっては、地域を結ぶ交通路でもありました。

伊予から中国地方へ。

瀬戸内海を通じて畿内へ。

さらに九州へ。

船を利用すれば、陸路とは異なる移動が可能になります。

ただし、海を渡るには船が必要です。

海流や潮の満ち引き、風の向き、沿岸の地形についての知識も必要になります。

義助が四国で軍事活動を進めるには、そうした海上交通に関わる人々の協力が重要でした。

その一つが、忽那氏です。

忽那氏は、現在の愛媛県松山市沖にある忽那諸島を中心に活動していた一族です。

瀬戸内海の島々を拠点とし、海上交通に関わりながら、南北朝の戦乱にも参加しました。

義助の伊予入りにも、忽那氏の協力があったとされています。

ここで考えたいのは、武将がどれほど大きな実績を持っていても、知らない地域では、その土地の人々の力が必要になるということです。

海を知る者。

船を動かす者。

地域の有力者との関係を持つ者。

その協力がなければ、軍勢を移動させることも難しくなります。

義助は、兄とともに培ってきた経験を持ちながら、四国では新たな人間関係の中で行動しなければならなかったのです。

伊予国分寺。義助に何が起きたのか

1342年。

脇屋義助は伊予国へ入りました。

しかし、その後まもなく病に倒れ、命を落とします。

義助は、四国で大きな軍事活動を展開する前に亡くなってしまったのです。

ここには、歴史を調べる上で興味深い問題があります。

『太平記』では、義助の伊予入りと死を1340年の出来事として描いています。

しかし、当時の文書などを検討すると、義助が1341年まで越前で活動していたことが確認されています。

そのため、『愛媛県史』などでは、義助の伊予入りと死を1342年としています。

つまり、広く知られる軍記物語の年代が、別の史料と一致していないのです。

軍記物語は、歴史の出来事を知る上で重要な記録です。

しかし、そこに書かれている年月日が、必ずしも正確であるとは限りません。

複数の記録を照らし合わせることで、初めて見えてくる事実があります。

義助がなぜ病に倒れたのか。

どのような病気だったのか。

その具体的な原因は分かっていません。

ただ、長年戦い続けた義助が、四国での新たな活動を始めようとした時期に亡くなったことは、南朝方にとって大きな損失でした。

現在の愛媛県今治市には、義助の墓所と伝わる場所が残されています。

しかし、そこに残る墓所や廟も、後世の人々によって整備されてきた歴史を持っています。

義助の最期を考えるときにも、1342年の出来事と、それを後世の人々がどのように伝えたのかを分けて考える必要があります。

兄弟が命を落としても、新田氏の歴史は終わらなかった

1338年、新田義貞が越前で戦死しました。

1342年、弟の脇屋義助も伊予で亡くなりました。

新田氏の中心となって戦ってきた兄弟が、相次いで歴史の舞台から姿を消したことになります。

しかし、二人には次の世代がありました。

義貞の嫡男・義顕は、すでに1337年の金ヶ崎城で命を落としています。

一方、義興と義宗は生き残っていました。

義興と義宗は、義貞が鎌倉幕府を倒したころには、まだ幼い世代でした。

父が足利尊氏と戦い、越前へ向かい、やがて命を落としたときにも、父と同じ経験を積んだ武将ではありませんでした。

しかし、その後の歴史では、二人が新田一族の軍事的な中心として登場します。

ここで一つ、考えたいことがあります。

幼いころに父を失った人々が、なぜ十年以上も経過してから、再び父と同じ相手に対抗することになったのでしょうか。

そこには、新田氏という一族の立場だけでなく、当時の政治状況が大きく関わっていました。

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