新田義貞の死後、戦い続けた一族。弟・脇屋義助と二人の息子に残された歴史の謎【2】
総大将を失った軍勢は、なぜ戦い続けられたのか
新田義貞の死後、足利方への降伏者が現れました。
しかし、それでも戦いを続けた武士たちがいました。
その理由を、義貞への忠義だけで説明することはできません。
一族の長い関係を大切にする者もいたでしょう。
足利方に降伏しても、領地を保障されるとは限らない者もいたと考えられます。
また、これまで新田方として戦ってきたために、簡単には別の勢力へ移れない事情を抱えていた武士もいたかもしれません。
当時の武士にとって、戦うことは自分一人の問題ではありませんでした。
自分の判断によって、家族や家臣、一族の将来が変わります。
降伏することにも危険があります。
戦い続けることにも危険があります。
どちらか一方を選べば、必ず安全になるという状況ではなかったのです。
さらに、越前には義貞が再建した軍事拠点が残っていました。
金ヶ崎城や杣山城などの拠点を維持できれば、足利方への抵抗を続けることは可能でした。
人々が協力できる場所と、軍勢を率いる人物が残っていたこと。
それが、義貞の死後も戦いが続いた大きな理由の一つだったと考えられます。
1339年、義助は再び越前で反撃する
新田義貞の死から翌年の1339年。
越前の戦いは、なお続いていました。
『福井県史』に収録された当時の記録には、南朝方が織田や田中などの地域で軍事行動を行っていたことが記されています。
越前各地の城や集落、交通路をめぐって、足利方と新田方が戦っていたのです。
このころの戦いを考える上で大切なのは、越前が一つの大きな戦場だったわけではないことです。
山地に築かれた城。
平野部の交通路。
海上交通につながる港。
寺院が持つ土地。
それぞれが異なる意味を持っていました。
ある場所で新田方が勝利しても、別の場所では足利方が優勢になることがあります。
そのため、義助は一つの城を攻撃するだけでなく、広い地域で軍勢の動きを調整しなければなりませんでした。
しかし、戦況は次第に厳しくなっていきます。
斯波高経も、周辺の武士たちの協力を得ながら反撃を続けました。
1340年には黒丸城を奪い返し、さらに1341年には鯖波や杣山方面にも攻撃を進めます。
新田方が守ってきた拠点は、次第に失われていきました。
義助は兄の死後も戦いを続けましたが、越前の情勢を長く維持することはできませんでした。
それでも、義助自身の戦いはここで終わりません。
越前を離れた義助は、なぜ四国へ向かったのか
1341年、義助は越前から吉野へ向かい、後村上天皇のもとに戻りました。
後村上天皇は、1339年に亡くなった後醍醐天皇の皇子です。
このころ南朝方は、各地に残る勢力を利用しながら、足利政権に抵抗を続けていました。
畿内だけでなく、東国、北陸、四国、九州にも、南朝を支持する人々がいました。
しかし、離れた地域同士が連絡を取り、協力することは簡単ではありません。
その中で、義助は新たな役割を任されます。
向かった先は伊予国。
現在の愛媛県にあたる地域です。
義助は、長年にわたって兄とともに関東や畿内、越前で戦ってきました。
今度は瀬戸内海を越え、四国で南朝方の勢力をまとめる立場になったのです。
なぜ義助だったのでしょうか。
南朝方には、伊予の河野一族や忽那氏など、足利方に対抗する勢力がありました。
その人々をまとめるには、軍事的な経験だけでなく、南朝の指導者として認められる立場も必要だったでしょう。
義助は新田義貞の弟であり、長年の戦闘経験を持つ武将でした。
その存在は、四国の南朝方にとって重要だったと考えられます。
ただし、義助本人が四国行きをどのような気持ちで受け止めたのかは分かりません。
義助は、兄と戦った越前を離れ、さらに新しい戦場へ向かいました。
その決断には、まだ語られることの少ない歴史があります。