東大阪の研究開発現場から生産現場までの「ものづくり」なら【株式会社アリス】試作サンプル、切削加工、精密部品加工、可視化部品製作、透明化処理、現物からの製作、単品OK

  • トップ
  • ニュース
  • 新田義貞の死後、戦い続けた一族。弟・脇屋義助と二人の息子に残された歴史の謎【1】

新田義貞の死後、戦い続けた一族。弟・脇屋義助と二人の息子に残された歴史の謎【1】

2015.07.08

1338年、閏7月2日。

越前国藤島で、新田義貞が命を落としました。

鎌倉幕府を滅ぼし、足利尊氏と戦い、金ヶ崎城で息子を失いながらも、再び越前で軍勢を立て直した武将でした。

その突然の死は、新田方の軍勢に大きな衝撃を与えます。

足利方に降伏する者。

戦場から離れていく者。

武士としての生き方を離れ、出家する者。

『太平記』には、義貞の死後、さまざまな道を選んだ人々の姿が描かれています。

しかし、新田一族の戦いは終わりませんでした。

義貞の弟・脇屋義助は、兄の死後も越前で戦い続け、やがて遠く離れた四国へ向かいます。

そして義貞の息子たち、新田義興と新田義宗も、父の死から十年以上が過ぎた後、再び関東で大きな戦いを起こしました。

なぜ、そこまでして戦い続けたのでしょうか。

すでに新しい武家政権を築いていた足利尊氏と和解する道はなかったのでしょうか。

そして、義貞の子・義興は、なぜ多摩川の渡し場で命を落としたのでしょうか。

そこには、父・義貞の最期とは異なる、さらに不可解な事件が残されています。

歴史の中で「敗れた一族」として語られることの多い新田氏。

しかし、その後の歩みをたどると、決して一度の敗北で消えてしまった一族ではなかったことが見えてきます。

新田義貞が死んだとき、越前の戦いは終わっていなかった

1338年の夏、新田義貞は越前で軍事的な勢力を回復していました。

前年には、敦賀の金ヶ崎城を失い、嫡男の義顕も戦死しています。

しかし、翌1338年には反撃に転じ、越前府中を確保し、金ヶ崎城も奪還しました。

越前の足利方を率いる斯波高経は、黒丸城などの拠点に退いて抵抗を続けていました。

義貞の死は、まさにそのような時期に起こったのです。

足利方にとって、義貞の戦死は大きな出来事でした。

一方、新田方には深刻な問題が生じます。

これから誰が軍勢を率いるのか。

誰が周辺の武士たちをまとめるのか。

一度は勢力を取り戻した越前の拠点を、どのように維持していくのか。

中世の軍勢は、現在の国家の軍隊とは異なります。

武将同士の個人的な関係や、一族の結びつき、領地をめぐる利害によって、多くの人々が集まっていました。

中心人物が突然いなくなれば、その関係が揺らぐことがあります。

しかし、義貞の死後も、金ヶ崎城には新田方の勢力が残っていました。

三国湊には畑時能、三峰城には河島惟頼、杣山城には瓜生一族がいました。

そして、越前府中には脇屋義助がいました。

新田義貞が築いてきた軍事的な関係は、義貞一人の死によって、すべて失われたわけではなかったのです。

兄・義貞と、弟・義助。同じ戦いを続けてきた二人

脇屋義助は、新田義貞の弟です。

上野国新田荘の脇屋を本拠とする一族の武将でした。

義助は1333年の鎌倉幕府滅亡にも関わり、その後も義貞とともに行動しました。

鎌倉幕府を倒した後、義貞と足利尊氏が敵対するようになると、義助も兄と同じ側で戦い続けます。

1336年には、義貞とともに越前へ向かいました。

そして金ヶ崎城の包囲戦では、兄とともに城を離れ、救援のために軍勢を集めようとします。

1338年、越前で反撃を開始した際にも、義助は重要な役割を担いました。

ここで義助を、兄の命令に従っていただけの人物として考えるのは適切ではありません。

義助自身も軍勢を率い、戦場で判断を重ねてきた武将です。

兄弟は同じ戦いに参加していましたが、常に同じ場所にいたわけではありません。

それぞれが別の部隊を率い、異なる場所で活動することもありました。

一つの軍勢を維持するためには、すべてを一人の武将が決めるのではなく、複数の人物が役割を分担する必要があります。

義助は、そうした役割を長く担ってきました。

だからこそ、義貞が戦死した後も、越前の新田方は義助を中心として活動を続けることができたのでしょう。

しかし、義助が直面した状況は、兄が生きていたころとは異なっていました。

                 一覧へ戻る
アリスの仕事に対する想いを見る オリジナルサンプル制作