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新田義貞、藤島の最期。なぜ歴戦の武将は、わずか五十騎で死地へ向かったのか【3】

2015.06.30

五十騎と三百騎。その数字は何を意味するのか

『太平記』には、義貞の軍勢は五十騎ほど、足利方は三百騎ほどだったと記されています。

数字だけを比べれば、約六倍の兵力差です。

しかし、中世の軍記物語に記された兵数は、実際の人数と一致するとは限りません。

また、騎馬武者の数が、その部隊全体の人数をそのまま表しているとも限りません。

騎馬武者には従者が付くこともあり、徒歩で戦う兵が同行していた可能性もあります。

そのため、五十騎と三百騎という数字を、現代の部隊人数のように正確なものとして扱うことはできません。

それでも、義貞側が少人数であったという描写には重要な意味があります。

義貞は、多くの武士を率いて越前で戦っていた総大将です。

しかし、敵と遭遇したその場所には、すぐに大軍を集めることができませんでした。

大きな軍事力を持っていることと、危険に遭遇した瞬間に、その軍事力を使えることは別の問題です。

義貞は、自分の軍勢が活動する地域で、少人数のまま敵と向き合うことになりました。

その状況は、義貞がそれまで経験してきた大規模な戦いとは、大きく異なっていたのです。

射手がいなかったという記録

『太平記』には、義貞の一行が弓を使う兵を十分に備えていなかったため、不利な状況に追い込まれたことが記されています。

これは、藤島の戦いを考える上で見逃せない点です。

中世の戦場では、弓矢が重要な役割を果たしていました。

接近して刀や槍で戦う前に、遠い位置から矢を放つことができます。

相手の進路を制限したり、騎馬武者の動きを妨げたりすることも可能です。

そのような武器を備えた軍勢に対し、十分な射手を持たない部隊が遭遇すれば、不利になる可能性があります。

義貞が率いていた一行は、本格的な戦闘を想定した編成ではなかったのでしょうか。

もし、戦場の視察を主な目的としていたのであれば、その可能性も考えられます。

しかし、義貞がどのような判断で五十騎を選んだのか、なぜ射手が十分ではなかったのかは、詳しく分かりません。

そして、ここでも疑問が生まれます。

義貞は敵の弓矢による攻撃を受けた時点で、撤退することができなかったのでしょうか。

義貞は、なぜ退かなかったのか

『太平記』では、敵との戦闘が始まった後、義貞の周囲にいた武士たちが次々と討たれていきます。

従者から退くよう進言されたものの、義貞はその場にとどまったとされています。

やがて義貞も致命傷を負い、最期を迎えました。

ここで義貞の行動を、勇敢だった、あるいは無謀だったという二つの評価だけで説明することはできないでしょう。

なぜ退かなかったのか。

退路が確保できていたのか。

周囲にいた兵は、どのような状態だったのか。

敵軍はどの方向から攻撃していたのか。

そして、義貞は自分が置かれた状況を、どの時点で把握したのでしょうか。

こうしたことが分からなければ、義貞の判断を正確に評価することはできません。

戦場では、状況が短時間で変化します。

敵と遭遇したときには退却できると思っていても、周囲の兵が倒れ、馬が傷つき、退路を押さえられれば、状況は一変します。

義貞が実際にどのような位置にいて、敵軍にどのように囲まれたのかを示す詳細な配置図は残っていません。

また、軍記物語では、武将の最期を印象的に描くために、行動や会話が強調されることがあります。

従者の進言を拒んだという記述についても、そのまま実際の会話として受け取ることはできません。

ただ、義貞が少人数で敵と遭遇し、その戦闘で命を落としたという出来事は、当時の戦況を大きく変えることになりました。

そして、義貞の最期には、もう一つ重要な問題があります。

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