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新田義貞、敗北からの再起。金ヶ崎城を奪還し、越前で再び立ち上がった武士たち【7】

2015.06.27

勝ち進んだときと、敗北から立ち上がるとき

1333年、新田義貞は鎌倉幕府を倒しました。

そのときの義貞は、挙兵から短期間で軍勢を拡大し、鎌倉攻略を成功させています。

一方、1337年から1338年にかけての義貞は、まったく異なる状況に置かれていました。

金ヶ崎城を失い、息子を失い、多くの家臣を失っています。

軍勢を動かすための条件も、鎌倉攻略のときとは違いました。

しかし、そのような状況でも、義貞は再び勢力を回復させました。

この事実は、義貞という人物を考える上で重要です。

新田義貞を、鎌倉幕府を倒した後は敗北を重ねただけの武将として描けば、越前での再起が見えなくなります。

反対に、再起に成功したことだけを強調すれば、そこに至るまでの犠牲や困難が見えなくなります。

義貞は、勝利だけを経験した武将ではありません。

また、敗北だけで終わった武将でもありません。

環境が変わるたびに、新しい判断を求められ、その結果と向き合いながら行動を続けた人物でした。

そして、その周囲には、義貞とともに考え、戦い、時には別の道を選んだ人々がいたのです。

再起した義貞が、次に目指したもの

1338年、越前における戦況は大きく変わりました。

義貞は金ヶ崎城を奪還し、越前の広い地域で軍事的な主導権を握りつつありました。

しかし、足利方の抵抗は終わっていません。

斯波高経は足羽郡に拠点を残し、周辺の武士たちとともに戦いを続けていました。

足利方にとっても、越前は簡単に失うことのできない地域でした。

京都と北陸を結ぶ交通路に関わり、日本海沿岸の諸国ともつながる場所だからです。

越前を押さえることは、単に一国を支配する以上の意味を持っていました。

義貞がさらに勢力を広げ、北陸から畿内へ進むことができれば、足利方は新たな脅威に直面します。

反対に、斯波高経が義貞の進軍を止めることができれば、足利方は北陸での支配を維持する可能性が高まります。

双方にとって、越前での戦いは続けなければならない戦いになっていました。

その中心となったのが、足羽郡に残る足利方の城々でした。

黒丸城。

藤島城。

そして周辺に置かれた防御拠点。

義貞は、これらの城を攻撃することで、越前に残る足利方の抵抗を抑えようとします。

しかし、その過程で予想しなかった出来事が起こることになります。

戦いの先に待っていた、藤島という場所

1338年の夏。

新田義貞は、越前で軍事的に有利な状況を築いていました。

鎌倉幕府を倒したときのように、短期間で大軍を集めたわけではありません。

金ヶ崎城の落城という深刻な敗北を経験し、時間をかけて勢力を回復させた結果でした。

そこには弟の脇屋義助がいました。

越前に残った新田方の武士たちがいました。

加賀や越後から協力する人々がいました。

そして足利方に属しながら、新田軍の動きを警戒し続ける武士たちもいました。

それぞれが異なる立場から行動し、越前の戦況を動かしていました。

義貞は、足羽郡に残る足利方の城々を攻める段階に入ります。

その一つが藤島城でした。

現在の福井市藤島町には、藤島城の遺構とされる土塁の一部が残されています。

金ヶ崎城のように海と山に囲まれた場所ではなく、福井平野の中に置かれた城でした。

城の形も、周囲の地形も違います。

軍勢の動かし方も、当然異なってきます。

そして、この藤島城をめぐる戦いが、新田義貞の生涯を大きく変えることになります。

敗北から立ち上がる力は、どこから生まれたのか

金ヶ崎城を失ったとき、新田義貞は多くのものを失いました。

その後も戦いを続けた理由を、私たちは義貞本人の言葉から詳しく知ることはできません。

しかし、義貞の行動をたどることで、考えられることがあります。

人は、一度失敗したからといって、それまで積み重ねてきた経験や人間関係をすべて失うわけではありません。

戦いに敗れても、残された人々との関係があります。

それまでに得た知識や経験があります。

新しい協力者と出会うこともあります。

そして、置かれた環境が変われば、それまで不可能だったことが実現できるようになる場合もあります。

新田義貞の再起も、義貞一人が諦めなかったから実現したという単純な物語ではありません。

新田方に残った人々がいました。

新しく協力した武士たちがいました。

敵方にも事情があり、戦況は変化し続けました。

その中で義貞たちは、再び戦える状況をつくっていったのです。

また、義貞に従い続けることを選んだ人々にも、それぞれの判断がありました。

誰もが同じ理由で行動していたわけではありません。

同じ目的を共有していても、考え方や置かれた環境は異なります。

その違いを抱えながら、人々は協力し、一つの軍勢として行動していました。

金ヶ崎城を失ってから、再び取り戻すまで。

この期間の新田義貞には、鎌倉幕府を倒したときとは違う姿があります。

勝利へ向かって進むだけではなく、敗北から状況を立て直そうとする姿です。

そして、義貞とともに歩んだ多くの人々の姿でもあります。

歴史に残された勝敗は、その時代を生きた人々の行動の結果です。

しかし、結果だけでは、その人々が何を考え、どう判断し、どのように協力したのかを知ることはできません。

だからこそ、新田義貞の再起を考えるときには、金ヶ崎城を取り戻したという事実だけでなく、そこに至るまでの時間と人々の関係を見つめたいと思います。

1338年、越前で勢力を取り戻した新田義貞。

その次の戦いの舞台は、藤島でした。

そこでは、鎌倉幕府を倒し、建武政権を支え、敗北の後も戦い続けてきた一人の武将が、思いがけない最期を迎えることになります。

しかし、それは義貞の人生が失敗だったという意味ではありません。

その人物が残したものは、戦いの勝敗だけで測れるものではないからです。

新田義貞の最期に何が起こったのか。

なぜ、再起に成功しつつあった軍勢の中心人物が、突然命を落とすことになったのか。

次回は、藤島城と燈明寺畷に残された記録と伝承をたどり、その最後の戦いを考えていきます。

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