新田義貞、敗北からの再起。金ヶ崎城を奪還し、越前で再び立ち上がった武士たち【6】
足利尊氏にとって、新田義貞は終わった敵ではなかった
金ヶ崎城が落ちたとき、足利方は北陸における重要な拠点を攻略したことになります。
しかし、新田義貞はその後も生き残りました。
そして1338年には、越前での戦況を逆転させました。
足利方にとって、これは無視できない事態でした。
斯波高経は越前府中から退き、足羽郡方面で防御を続けます。
さらに足利方は、若狭や近江などから軍勢を動員して、新田軍に対抗しようとしました。
金ヶ崎城を再び攻撃する動きもありましたが、新田方の活動を完全に抑えることはできませんでした。
また、幕府は土岐頼貞らの軍勢も越前へ向かわせました。
これらの動きは、足利方が義貞の勢力拡大を警戒していたことを示しています。
ただし、尊氏本人が義貞についてどのような感情を抱いていたのかを、ここから直接知ることはできません。
敵として恐れていたのか。
過去に協力した武将として意識していたのか。
あるいは新しい武家政権を守るために排除しなければならない軍事勢力として捉えていたのか。
本人の感情と、実際に行われた政治的・軍事的な対応は分けて考える必要があります。
確かなのは、金ヶ崎城を攻略しただけでは、足利方は新田義貞の抵抗を終わらせることができなかったということです。
越後からも動き始めた武士たち
1338年になると、越後方面でも後醍醐天皇方の武士たちの動きが活発になりました。
越後は、新田氏にとって無関係な地域ではありません。
新田一族には越後に所領や人的関係を持つ者がいました。
そうした関係は、鎌倉時代からの長い歴史の中で築かれてきたものです。
『福井県史』では、越後の池氏や風間氏らの動きを取り上げています。
越後の武士たちは北陸方面で軍事行動を進め、越前の新田軍と連携する可能性が高まっていました。
これが実現すれば、斯波高経の軍勢は越前の義貞軍だけでなく、北から進む武士たちへの対応も迫られます。
軍事的な状況は、さらに新田方に有利となる可能性がありました。
ただし、越後勢の具体的な行動や進軍経路については、軍記物語と当時の文書を照合しながら検討する必要があります。
越後から武士たちが動いたということは、義貞個人の呼びかけだけで大軍が集まったという意味ではありません。
もともとの一族関係や地域の利害、足利方との関係など、さまざまな事情が重なっていたと考えられます。
北陸の戦いは、越前だけで完結するものではなくなっていました。
斯波高経が守ろうとした越前
ここで、足利方の斯波高経にも目を向けてみたいと思います。
高経は、足利氏の有力一族につながる武将でした。
越前守護として、この地域の軍事と支配に重要な役割を担っていました。
金ヶ崎城を攻略した後、足利方は越前で勢力を広げようとしていました。
しかし、新田義貞の反撃によって、高経は府中を離れ、足羽郡へ退くことになります。
高経にも、支える一族や家臣たちがいました。
越前での支配を維持できなければ、彼らの立場も変わります。
高経が新田軍に対抗し続けたことには、足利政権の命令に従うというだけでなく、自分たちが築いてきた支配を維持するという問題もあったと考えられます。
そして高経は、軍勢による戦いだけでなく、地域の有力者たちを味方につけるためにも動きました。
その一つが、平泉寺の衆徒との関係です。
土地を保障し、協力を求める。
その協力によって、敵の勢力を弱める。
中世の戦争では、こうした交渉も重要な役割を果たしました。
義貞も高経も、武器を持って戦うだけではなく、人々の協力を得るための行動を続けていたのです。