新田義貞、敗北からの再起。金ヶ崎城を奪還し、越前で再び立ち上がった武士たち【4】
金ヶ崎城を、もう一度取り戻す
1338年4月までに、新田義貞の軍勢は金ヶ崎城を奪還しました。
前年3月に落城した城です。
そこでは、尊良親王と新田義顕が命を落としました。
瓜生保らが命をかけて救援を目指し、それでも守り抜くことができなかった場所でした。
その城が、再び新田方の手に戻ったのです。
金ヶ崎城の奪還は、軍事的に大きな意味を持っていました。
敦賀という交通上の重要地域に、再び拠点を得ることができたからです。
北陸から畿内へつながる道を考える上でも、敦賀の確保には価値がありました。
しかし、新田義貞にとって、金ヶ崎城はそれだけの場所ではなかったでしょう。
息子の義顕が最後まで守り、命を落とした城でもあったからです。
もっとも、義貞が奪還した城を見て何を感じたのか、その具体的な心情は分かりません。
再び城を手に入れたことで、失った人々が戻ってくるわけではありません。
かつてこの城で共に過ごした人々の多くは、もうそこにはいませんでした。
それでも、義貞たちは城を取り戻しました。
そして、金ヶ崎城を再び利用できるようになったことで、越前での軍事活動をさらに広げる可能性が生まれたのです。
金ヶ崎城の奪還を支えたのは、誰だったのか
この戦いの中心人物として歴史に名が残るのは、新田義貞です。
しかし、金ヶ崎城の奪還を義貞一人の功績として説明することはできません。
脇屋義助をはじめ、新田一族の武将たちがいました。
越前に残っていた協力者たちがいました。
さらに、加賀方面から加わった武士たちや、戦況に応じて新田方へ協力した人々もいました。
『太平記』には、畑時能が加賀の武士たちを誘い、越前へ導いたとする記述があります。
その中には敷地氏、山岸氏、上木氏などの名が見られます。
また、平泉寺の衆徒など、宗教勢力に関わる人々も、この時期の戦いに参加していました。
現在の感覚では、寺院は宗教活動を行う場所という印象が強いかもしれません。
しかし中世の大寺院は、土地を持ち、人々を組織し、地域の政治や軍事にも関わる存在でした。
平泉寺も、白山信仰の拠点であると同時に、越前の地域社会に大きな影響力を持っていました。
そのため、平泉寺の衆徒たちがどちらの勢力に加わるかは、戦局に関わる重要な問題でした。
武士、宗教勢力、地域の有力者。
立場の異なる人々が関わり、越前の戦況は動いていました。
新田義貞の再起は、そうした人々の力が重なった結果でもあったのです。
平泉寺の人々も、一つの考えで動いていたわけではない
平泉寺は、越前国大野郡に位置する白山信仰の重要な拠点でした。
現在の福井県勝山市に残る平泉寺白山神社の周辺には、かつて多くの坊院が広がっていたとされています。
中世の宗教勢力を考えるとき、寺院全体が常に一つの考えで行動していたと思い込まないことが大切です。
同じ寺院に関わる人々の中にも、それぞれの立場や利害がありました。
地域の領地を守ろうとする者。
有力な武士と関係を持つ者。
寺院の経済的な基盤を維持しようとする者。
戦乱が長引く中で、どちらの勢力と協力するかは簡単に決められる問題ではなかったでしょう。
この時期、平泉寺の衆徒の一部は新田方に協力しました。
しかし、その関係が最後まで変わらなかったわけではありません。
後に斯波高経は、平泉寺の人々を味方につけるため、藤島荘を恩賞として与えることを約束したと伝えられています。
この動きは、新田義貞の最期に関わる藤島城の戦いにもつながっていきます。
人々の所属や協力関係は、戦争が始まった時点ですべて決まっていたわけではありません。
戦況や土地の問題、周囲の勢力の変化によって、判断が変わることもあったのです。
その変化を、ただ裏切りという言葉だけで説明するのではなく、なぜその選択が生まれたのかを考える必要があります。