新田義貞と金ヶ崎城の悲劇。二人の皇子と息子・義顕を残し、なぜ城を離れたのか【1】
1337年3月6日。
越前国敦賀、金ヶ崎城。
敦賀湾を見下ろす山城で、約5か月にわたる攻防が終わろうとしていました。
城内には、後醍醐天皇の皇子である恒良親王と尊良親王、そして新田義貞の嫡男・新田義顕がいました。
かつて鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞は、このとき城内にはいませんでした。
義貞は城を離れ、弟の脇屋義助らとともに、別の場所で軍勢を立て直そうとしていたのです。
しかし、救援は間に合いませんでした。
金ヶ崎城は落城し、尊良親王と新田義顕は命を落とします。
恒良親王も捕らえられ、京都へ送られました。
後醍醐天皇から託された二人の皇子。
新田一族の将来を担う息子。
義貞は、その人々を守り抜くことができませんでした。
なぜ義貞は、金ヶ崎城を離れたのでしょうか。
城に残って最後まで戦う道はなかったのでしょうか。
そして、城を救おうとして命を落とした人々は、どのような思いで戦場へ向かったのでしょうか。
この戦いをたどると、新田義貞の生涯における最も厳しい決断の一つが見えてきます。
北国に託された、新しい政治の可能性
1336年、後醍醐天皇と足利尊氏の間で講和が進められました。
それまで天皇のもとで尊氏と戦ってきた新田義貞にとって、情勢は大きく変わりました。
後醍醐天皇が尊氏との講和を受け入れれば、義貞が戦い続ける根拠そのものが揺らぎます。
しかし、義貞の周囲には、それまで足利方と戦い続けてきた武士たちがいました。
戦死した者がいて、領地を失った者もいました。
簡単に戦いを終わらせられる状況ではなかったと考えられます。
このとき義貞は、後醍醐天皇の皇子である恒良親王と尊良親王を奉じ、北陸へ向かうことになります。
『太平記』には、後醍醐天皇が恒良親王に皇位を譲り、新田義貞に託したとする記述があります。
これが、北陸朝廷構想として論じられてきた問題です。
実際に正式な皇位継承が成立していたかについては慎重な検討が必要ですが、義貞が二人の皇子を伴って北国へ向かったことには、明確な政治的意味がありました。
皇子たちを中心として武士を集め、京都とは別の場所から足利氏に対抗する可能性があったのです。
義貞が単に自分の命を守るために逃れたのではなく、北陸で新たな軍事的・政治的基盤を築こうとしていたことが、この行動からうかがえます。
ただし、その構想が実現するためには、越前の武士たちの協力が必要でした。
そして、そこにはすでに足利方の勢力が存在していました。
金ヶ崎城という、海と山に囲まれた拠点
現在の福井県敦賀市。
敦賀湾の東岸に位置する金ヶ崎城跡は、天筒山から北西へ延びる尾根の上にあります。
山の一方には敦賀湾が広がり、反対側には敦賀の市街地と周囲の山々が連なっています。
この場所は、日本海の海上交通と北陸・畿内を結ぶ陸上交通が交わる地域にあります。
軍勢を配置する上でも、重要な立地でした。
城を守る側は、尾根や斜面を利用して攻め寄せる敵の動きを制限することができます。
しかし、山城には弱点もあります。
周囲を敵に囲まれ、食料や水、武器などの補給が断たれれば、城兵は次第に追い詰められます。
海に近いからといって、いつでも船で物資を運べるわけではありません。
海上も敵に押さえられれば、補給はさらに難しくなります。
金ヶ崎城は、守りやすい地形と、孤立したときの危険をあわせ持つ場所だったのです。
そして、新田義貞たちは、この城を重要な拠点として選びました。