新田義貞、越前への決断。後醍醐天皇と別れ、二人の皇子を守って北国へ向かった理由【3】
越前へ向かう道は、すでに敵に押さえられていた
1336年10月上旬。
新田義貞の軍勢は比叡山を離れ、越前敦賀を目指しました。
現在の地図を見ると、京都から琵琶湖の西側を進み、北へ向かえば敦賀へ至る道があります。
しかし、当時の義貞軍にとって、その道を自由に進むことはできませんでした。
越前守護の斯波高経が、近江と越前の国境周辺に軍勢を配置していたのです。
斯波高経は足利氏の有力な一族につながる武将で、越前における足利方の中心人物でした。
義貞の軍勢が北陸へ向かうことは、足利方も警戒していました。
塩津や海津周辺の交通路を押さえられた義貞軍は、予定していた進路を変更せざるを得なくなります。
軍勢の移動では、最短距離を進めばよいというものではありません。
敵が待ち構えている場所へ進めば、狭い街道で軍勢が分断される危険があります。
一方、迂回路を選べば、移動距離が延び、食料や体力を消耗します。
さらに、皇子たちを伴っている以上、軍勢の機動力だけを優先することも難しかったでしょう。
どの道を選ぶのか。
誰に先導を任せるのか。
どこで休み、どのように兵糧を確保するのか。
義貞たちは、実際の地形と敵の配置を考えながら進まなければならなかったのです。
木ノ芽峠を越える。北国への厳しい道
義貞軍は、敵の守る主要な交通路を避け、険しい山道を越えて越前へ入りました。
その道のりについて、『太平記』には厳しい寒さと雪に苦しめられた様子が記されています。
風を伴う雪の中で進軍し、凍死する者も出たというのです。
10月という時期を考えると、記述どおりの積雪や寒さであったかは、当時の気候や通過地点も含めて検討が必要です。
しかし、山中で悪天候に遭遇した軍勢が深刻な危険に直面することは、十分に考えられます。
山道では、平地のように大勢が横に並んで進むことはできません。
一列あるいは限られた幅で進むことになれば、軍勢は長く伸びます。
前方で人や馬が立ち止まれば、後方の移動も止まります。
道を見失えば、軍勢が分かれることもあります。
『太平記』には、移動の途中ではぐれた者が敵に襲われ、命を落としたという記述も残されています。
また、同行していた千葉貞胤は、途中で足利方に降ったとされています。
困難な状況に置かれた人々が、最後まで同じ選択を続けるとは限りません。
家臣や一族を守るため、別の道を選ぶ武将もいたのでしょう。
義貞軍は、こうした困難を抱えながら木ノ芽峠を越えたと伝えられています。
そして10月13日、敦賀に到着したと『太平記』は記しています。
鎌倉攻略のときとは違い、義貞の軍勢は多くのものを失いながら目的地へたどり着いたのです。