楠木正成 平泉寺の深い森に残された供養塔。なぜ遠く越前の地で弔われたのか【3】
湊川から遠く離れた平泉寺に現れた武者
正成が湊川で命を落とした頃。
遠く離れた越前の平泉寺では、一人の僧侶が修行していたと伝えられています。
その名は恵秀律師。
平泉寺白山神社の伝承では、楠木正成の甥にあたる人物とされています。
恵秀が三之宮の拝殿で勤めをしていたとき、不思議な出来事が起こります。
突然、鎧甲を身につけた武者が目の前に現れたというのです。
その姿は、楠木正成でした。
恵秀は驚き、なぜ正成がこの場所に現れたのか、不思議に思いました。
やがて正成が湊川の戦いで亡くなったという知らせが届きます。
調べてみると、正成が現れたとされる日と、湊川で戦死した日が重なっていたのです。
恵秀は正成を弔うため、その場所に石塔を建てたと伝えられています。
これが、現在の平泉寺白山神社に残る楠木正成の供養塔の由来です。
この出来事が実際に起こったのかどうかを、確かめることはできません。
しかし、なぜこのような伝承が生まれ、長い年月を経ても語り継がれてきたのでしょうか。
私は、そこに関心があります。
湊川で戦死した正成を、遠く越前の山中で弔ったという話。
それは、戦場で命を落とした武将と、離れた土地で生きる親族との結びつきを伝える物語でもあります。
当時は、遠く離れた土地で起きた出来事を、すぐに知ることができる時代ではありませんでした。
戦場に向かった家族が、今どこで何をしているのか。
無事に生きているのか。
それさえ分からないまま、知らせを待つ人々もいたでしょう。
恵秀の伝承を読んでいると、戦った人間だけでなく、その帰りを待つ人々にも歴史があったことを考えさせられます。
平泉寺は、後醍醐天皇方と深い関係があった
実は、平泉寺と後醍醐天皇方との関係を考える上で、もう一つ重要な歴史があります。
1333年、鎌倉幕府が滅亡する際、平泉寺は越前にいた北条氏一族の勢力と戦いました。
現在の勝山市周辺にあたる地域でも、全国的な政変と結びついた戦いが起きていたのです。
つまり平泉寺は、山中で祈りを捧げるだけの場所ではありませんでした。
武装した人々を擁し、地域の政治や軍事にも関わる大きな勢力だったのです。
平泉寺には土地があり、経済活動があり、多くの人々の生活がありました。
その中心にいた僧侶たちは、信仰上の判断だけでなく、社会の変化にも対応しなければなりませんでした。
正成の親族と伝わる恵秀が、この場所で修行していたことも、当時の寺院が広い人間関係を持っていた可能性を考えさせます。
ただし、恵秀と正成の血縁関係や、平泉寺と楠木一族の具体的な交流については、伝承以上の確かな記録が十分に確認できているわけではありません。
それでも、正成の供養塔がこの土地に残されていることは、後世の人々が楠木正成と平泉寺の関係を大切にしてきたことを物語っています。
正成を弔う寺院が、なぜ新田義貞と戦ったのか
ここから、平泉寺の歴史はさらに複雑になっていきます。
楠木正成が湊川で戦死した後も、後醍醐天皇を支持する人々の戦いは続きました。
後醍醐天皇は吉野へ移り、足利尊氏が擁立した北朝との対立が深まっていきます。
いわゆる南北朝時代です。
新田義貞も、後醍醐天皇方の有力な武将として戦い続けていました。
しかし、その新田義貞が越前で戦っていた頃、平泉寺は足利方の斯波高経に味方することになります。
福井県史には、斯波高経が平泉寺を味方につけるため、藤島荘を恩賞として与えることを約束した記録が紹介されています。
平泉寺の人々は藤島城に籠もり、新田義貞と敵対しました。
そして1338年、新田義貞は越前の藤島付近で戦死します。
ここには、考えさせられるものがあります。
かつて鎌倉幕府の北条氏一族と戦い、後醍醐天皇方と関係を持っていた平泉寺。
その境内には、後醍醐天皇を支えた楠木正成の供養塔がありました。
しかし、その平泉寺が、後には同じ後醍醐天皇方の新田義貞と戦う側に回っていたのです。
なぜ、そのような選択をしたのでしょうか。
平泉寺の人々が、正成や後醍醐天皇を支持する気持ちを失ったからでしょうか。
それとも、寺院の所領や人々の生活を守るために、現実的な判断を迫られたのでしょうか。
斯波高経が所領を恩賞として約束していたことを考えると、政治的な立場だけではなく、土地をめぐる利害も関わっていたことが分かります。
ただし、平泉寺に関わるすべての人々が、同じ意見だったとは限りません。
大きな宗教勢力の中にも、さまざまな考え方や立場が存在していたはずです。
ここで、正成の供養塔の存在が、また違った意味を持って見えてきます。
平泉寺という組織が政治的な立場を変えても、正成を弔う場所は残されていった。
それは、政治や戦争における組織の判断と、一人の人間を悼む気持ちが、必ずしも同じものではないことを考えさせます。
歴史上の出来事は、敵か味方かという二つの立場だけでは説明できないのかもしれません。