新田義貞 鎌倉幕府を倒した武将は、なぜ故郷の上野国で立ち上がったのか【5】
義貞は、鎌倉幕府を倒せると信じていたのか
ここで、もう一度1333年5月8日の生品神社へ戻ってみたいと思います。
義貞は、このとき鎌倉幕府の滅亡を確信していたのでしょうか。
後醍醐天皇の倒幕の動きは続いていました。
楠木正成は千早城で幕府軍に抵抗していました。
京都方面でも、幕府の政治に対する不満が広がっていました。
それでも、鎌倉幕府は長年にわたり東国を支配してきた大きな勢力でした。
義貞が150騎ほどで兵を挙げたとき、その数日後にどれほどの兵が集まるのか、正確に予測できたのでしょうか。
幕府軍との戦いで勝てるという保証があったのでしょうか。
そして、鎌倉を攻略できたとして、その後にどのような政治が始まるのか、見通せていたのでしょうか。
私には、義貞がすべての答えを持っていたとは思えません。
しかし、未来が分からないからといって、何もしないわけにはいかなかったのでしょう。
自分たちが置かれた状況を考え、必要な情報を集め、協力できる人々を探し、行動する。
そして、状況が変われば、その都度判断していく。
義貞もまた、そのようにして道を切り開こうとしていたのではないでしょうか。
ここには、楠木正成や源義経、藤原秀衡、足利尊氏といった、これまで歴史探訪で取り上げてきた人物たちにも共通するものが見えてきます。
人間は、生まれた環境だけで人生が決まるわけではありません。
その環境の中で考え、学び、人と力を合わせることで、新しい可能性を生み出すことがあります。
もちろん、その判断が必ず成功するわけではありません。
失敗することもあります。
望まない結果を迎えることもあります。
それでも、人間は自分たちの置かれた状況に向き合い、次の答えを探し続けることができるのです。
鎌倉へ向かう道
生品神社を出発した義貞の軍勢は、やがて上野国から武蔵国へと進んでいきます。
その途中で多くの武士たちが加わり、軍勢は次第に大きくなっていきました。
しかし、その道の先には、鎌倉幕府の軍勢が待っていました。
小手指原、久米川、分倍河原。
武蔵国では、幕府方と義貞の軍勢との間で激しい戦いが繰り広げられることになります。
そして、最後には鎌倉そのものをめぐる決戦へ向かっていくのです。
後世の私たちは、その結末を知っています。
1333年5月、鎌倉幕府は滅亡しました。
しかし、生品神社を出発した日の義貞は、その未来を知りませんでした。
義貞とともに進軍した人々も同じです。
これからどのような敵と戦い、どれほどの犠牲が生まれ、誰が生き残るのか。
その答えを知らないまま、故郷を離れたのです。
現在の生品神社には、義貞の挙兵を伝える史跡が残されています。
毎年5月8日には、義貞の故事にちなむ鏑矢祭が行われています。
遠い昔にこの場所から出発した人々の記憶が、今も地域の中で受け継がれているのです。
新田義貞。
後に鎌倉幕府を滅ぼした武将として、歴史に名を残す人物。
しかし、その始まりにあったのは、何万人もの大軍ではありませんでした。
上野国新田荘という土地。
そこで何世代にもわたって築かれてきた人々の関係。
そして、幕府に反旗を翻すことを選んだ義貞と、その決断に加わった人々がいました。
なぜ義貞は立ち上がったのか。
その理由を一つに決めることはできません。
けれども、新田荘の歴史をたどることで、義貞という人物が決して一人で行動していたわけではないことが見えてきます。
やがて義貞は、鎌倉の目前に迫ります。
そこには、源頼朝が築いた武家政権の中心がありました。
そして、その鎌倉には、幕府を守ろうとする人々もいました。
新田義貞の戦いは、ここから大きく動き始めることになるのです。