楠木一族と南北朝合一。五十六年の争いは、本当に終わったのか【4】
勝った側が、すべてを正しく語るとは限らない
ここで、歴史が後世にどのように伝えられるのかという問題について考えてみたいと思います。
南北朝の争いでは、最終的に室町幕府が政治的な主導権を握り、皇位も北朝の系統に受け継がれていきました。
しかし、そのことによって南朝側で戦った人々の行動が、すべて間違っていたことになるのでしょうか。
反対に、後世の人々が楠木正成を称えたからといって、正成の判断がすべて正しかったと考えてよいのでしょうか。
私は、どちらも違うと思います。
当時の人々は、未来の結果を知っていたわけではありません。
それぞれが置かれた状況の中で、何を守るべきなのか、どのように行動すべきなのかを考えていました。
結果として勝った人間にも、失敗した判断はあったでしょう。
敗れた人間にも、優れた知恵や判断があったはずです。
さらに、歴史の記録は、すべての人々の考えを同じように残しているわけではありません。
政治の中心にいた人々の記録が残りやすい一方で、地方で暮らした人々や、名も知られない人々の声は失われていきます。
そのため、後世の私たちが歴史を考えるときには、誰が残した記録なのか、どのような立場から語られているのかにも目を向ける必要があります。
そして、後の時代に与えられた評価を、そのまま当時の人々の姿として受け取らないことも大切でしょう。
明治時代、南朝と楠木正成の評価が改めて位置づけられた
南北朝の歴史は、1392年の合一によって終わったわけではありません。
その後も、南朝と北朝のどちらを正統と考えるのかという問題は、長い年月にわたって論じられてきました。
江戸時代には、水戸学などの歴史思想の中で、南朝の正統性が重視されるようになります。
楠木正成についても、忠義を尽くした武将としての評価が広がっていきました。
そして明治時代になると、その評価は国家的な歴史観とも結びついていきます。
1872年には、神戸に楠木正成を祀る湊川神社が創建されました。
さらに1911年、南北朝の正統性をめぐる問題では、南朝を正統とする扱いが公式に定められます。
ここで、改めて歴史の不思議さを感じます。
1392年、政治的には北朝の系統が続く形で南北朝合一が成立しました。
しかし、何百年も後には、南朝が正統と位置づけられるようになったのです。
もちろん、南朝を正統とする考え方が明治時代に突然生まれたわけではありません。
それ以前から続いてきた思想や歴史研究の流れがありました。
しかし、国家がどのような歴史観を採用するのかによって、歴史上の人物の評価が大きく変わることがあります。
ここで考えたいのは、政治的な正統性と、人間としての評価を混同しないことです。
ある時代に正統とされた側にいたからといって、そこに属するすべての人間が優れていたわけではありません。
反対に、政治的な立場を失った側にいたからといって、その人々の人生が否定されるわけでもありません。
歴史上の人物を理解するためには、後世に与えられた肩書きや評価だけでなく、その人物が生きた時代の現実を見つめる必要があります。