三輪山はなぜ山そのものが神さまになったのだろう
奈良盆地を歩いていると、いろいろな場所から三輪山が見えます。
大神神社では、三輪山そのものが特別な山として大切にされてきました。
私はこれを考える時、「なぜ昔の人は山を神さまだと思ったのだろう」と難しく考えなくてもいいような気がします。
山は、とにかく目立ちます。
遠くからでも見えます。
道を歩いていても方向が分かります。
「山を右に見ながら進む」
「山が正面に見えるところまで行く」
そんな使い方をしていた可能性もあるでしょう。
そして山は、目印だけではありません。
雨が降ります。
水が山から流れてきます。
森には木があります。
木の実や山菜、動物もいます。
薪も取れます。
山の近くで暮らす人にとって、山は生活から離れた存在ではありません。
毎日見て、毎日その恵みを受ける存在です。
一方で、山は怖い場所でもあります。
大雨が降れば水が一気に流れます。
土砂が崩れることもあります。
道に迷うこともあります。
恵みと怖さの両方を持っている。
だからこそ、人は山を特別なものとして感じたのではないでしょうか。
さらに三輪山の周辺には、人が暮らし、道があり、水があり、古くから多くの人が行き来してきました。
その場所で何世代も生活していれば、
「あの山のおかげで暮らしている」
という感覚が生まれても不思議ではありません。
後の時代になると、神さまには名前がつき、祭り方も整えられていきます。
でも、そのもっと前には、ただ山そのものを大切にする感覚があったのではないでしょうか。
立派な建物を作らなくても、毎日そこに山があります。
見上げれば分かる。
水を飲めば山から来たことも分かる。
私は、自然崇拝の原点は案外それくらい素朴なものだったのではないかと思っています。
神さまは遠い世界にいたのではなく、毎日目の前に見えていた。
三輪山は、その感覚を今にも残している山なのかもしれません。