楠木正成 湊川の戦い。勝つための道を考えた武将は、なぜ敗れる戦いへ向かったのか【2】
ってもらい、尊氏の軍勢を京都へ入れる。
その後、周囲から攻撃して補給路を断ち、敵を追いつめる。
このような戦い方を提案したと伝えられています。
京都という場所を守ることよりも、敵軍に勝つための条件を整えることを優先した考え方です。
ここには、千早城での正成の戦い方と通じるものがあります。
千早城では、大軍と平地で正面から戦うのではなく、自分たちに有利な山城に立てこもりました。
場所を選び、地形を生かし、相手の力を十分に発揮させない。
正成は、どこで戦うのかということを非常に重視していたように見えます。
京都を一度離れるという進言も、同じような考え方から生まれたのでしょうか。
しかし、この戦略は採用されなかったと伝えられています。
ここで、少し考えてみたいことがあります。
なぜ京都を離れることが難しかったのでしょうか。
京都は、単に建物や道路が集まった都市ではありません。
朝廷が政治を行い、天皇の権威を示す中心地でした。
後醍醐天皇にとって、その京都を自ら離れることは、軍事的な撤退というだけでは済まなかった可能性があります。
朝廷の権威が揺らぎ、各地の武士たちが尊氏へ傾く危険も考えられたでしょう。
正成は軍事的な勝利を重視した。
一方、朝廷側には政治的な立場を守るという事情があった。
そう考えると、双方の判断が異なった理由も少し見えてきます。
ただし、『太平記』に描かれた進言の内容や、朝廷でのやり取りが、そのまま実際に行われたとは限りません。
後世の人々が、正成の軍略を高く評価するために物語を整えた可能性も考える必要があります。
それでも、軍事的に有利な方法と、政治的に受け入れられる方法が必ずしも一致しないという問題は、当時の人々が直面していた現実だったのではないでしょうか。