楠木正成 湊川の戦い。勝つための道を考えた武将は、なぜ敗れる戦いへ向かったのか【1】
1336年5月25日。
現在の兵庫県神戸市、湊川の一帯で、日本の歴史を大きく変える戦いが起こりました。
京都を目指して進軍する足利尊氏・直義の軍勢。
それを迎え撃つ新田義貞と楠木正成。
わずか3年前、彼らは鎌倉幕府を倒すという共通の目的のために戦っていました。
ところが今、その武将たちが敵味方に分かれ、互いに命を懸けて戦おうとしていたのです。
楠木正成は、千早城で鎌倉幕府の大軍を相手に戦い続けた人物でした。
相手の兵力がどれほど多くても、正面から戦うことだけが方法ではない。
地形を利用し、敵の動きを読み、限られた戦力を生かす。
そうした工夫によって、圧倒的に不利な状況を乗り越えてきました。
その正成が、湊川では敗れ、弟の正季らとともに命を落としました。
なぜ、千早城では戦い続けることができた正成が、湊川では生き残ることができなかったのでしょうか。
戦い方を誤ったのでしょうか。
それとも、自分の考える戦略を実行できない事情があったのでしょうか。
そして、正成は本当に、初めから死を覚悟して戦場へ向かったのでしょうか。
その答えを考えるためには、湊川の戦いだけでなく、鎌倉幕府が滅亡した後の人々の動きを見ていく必要があります。
鎌倉幕府を倒した人々は、なぜ争い始めたのか
1333年、鎌倉幕府は滅亡しました。
およそ150年にわたり続いた武家政権が終わり、後醍醐天皇による新しい政治が始まります。
建武の新政です。
幕府の滅亡には、楠木正成、新田義貞、足利高氏、後の尊氏をはじめ、各地の多くの武士たちが関わっていました。
しかし、鎌倉幕府を倒した人々が、全員同じ未来を思い描いていたわけではありません。
後醍醐天皇は、天皇を中心とする政治を進めようとしました。
一方、長年にわたり武士が土地を管理し、軍事や地域の統治を担ってきた社会には、それまでに築かれた仕組みや人間関係がありました。
幕府がなくなったからといって、それらが突然消えるわけではありません。
武士たちは、自分の領地や家族、家臣たちの暮らしを守らなければなりませんでした。
戦いに参加した功績に対する恩賞を求める人々もいました。
朝廷には朝廷の考えがあり、地方には地方の事情がありました。
幕府を倒すという目的では力を合わせられても、新しい政治をどのようにつくるのかという問題では、考え方が分かれていったのです。
ここに、一つの難しさがあります。
共通の敵がいる間は、人々は協力しやすいものです。
しかし、その敵がいなくなったとき、本当に同じ目的を持ち続けられるのでしょうか。
むしろ、それぞれが考えていた理想や、守りたいものの違いが表面化することもあります。
建武の新政は、まさにそうした状況に置かれていたのではないでしょうか。
足利尊氏は、なぜ再び武士たちを集めることができたのか
足利尊氏は、もともと鎌倉幕府に仕えていた有力武将でした。
しかし、1333年、幕府に反旗を翻し、京都の六波羅探題を攻撃します。
その行動は、鎌倉幕府の滅亡を決定づける大きな要因の一つとなりました。
ところが、新しい政治が始まると、尊氏と後醍醐天皇の関係も次第に悪化していきます。
1335年、関東で北条氏の残存勢力が挙兵する中先代の乱が起こりました。
尊氏は鎌倉へ向かい、反乱を鎮圧します。
その後、尊氏は鎌倉にとどまり、朝廷の意向とは異なる行動を取るようになりました。
そして、後醍醐天皇方との武力衝突へと進んでいきます。
尊氏を支持した武士たちは、なぜ彼のもとに集まったのでしょうか。
単に尊氏の人柄に引かれたからではなかったでしょう。
足利氏は長い歴史を持つ有力な武家でした。
各地に所領や人間関係を持ち、多くの武士たちとつながっていました。
さらに、尊氏のもとで戦うことが、自分たちの立場や生活を守る道になると考えた人々もいたはずです。
尊氏自身も、そうした武士たちの期待を理解していたのでしょう。
もちろん、尊氏の行動がすべての武士たちに支持されていたわけではありません。
後醍醐天皇の側に残った武士も多くいました。
同じ武家社会に生きていても、何を大切にするか、誰と行動をともにするかは、人によって違っていたのです。
この対立を、忠義のある人間と裏切った人間という二つの立場だけで説明することは難しいと思います。
尊氏もまた、変化する政治の中で、自分がどのような立場を取るべきかを考え、行動していた一人の人間だったのではないでしょうか。