楠木正成 千早城の戦い。圧倒的な大軍を相手に、なぜ戦い続けられたのか【3】
大軍にも、大軍の難しさがあった
鎌倉幕府は、各地から武士たちを動員して千早城へ向かわせました。
幕府軍は、単に人数を集めればよいというわけではありません。
兵士には食料が必要です。
馬にも餌が必要になります。
武器や矢、その他の物資も運ばなければなりません。
大勢の人間が一つの場所に集まれば、その規模に応じた補給や宿営の準備が必要になります。
しかも、千早城周辺は広い平野ではありません。
大軍が自由に展開できる場所も限られていたでしょう。
狭い山道へ一度に兵を送り込もうとすれば、隊列が長くなり、後方にいる兵士たちは前方の状況を把握しにくくなります。
一方、城を守る正成たちは、限られた通路や攻撃しやすい場所を選んで防御できます。
つまり、大軍には兵力の優位がある一方で、その人数を十分に生かせない条件もあったのです。
これは、幕府側の武将たちの能力が低かったという話ではありません。
彼らもまた、険しい地形と限られた条件の中で戦い方を考えていたはずです。
短期間で城を攻め落とそうとするのか。
包囲を続けて食料を絶つのか。
城の弱い場所を探すのか。
指揮官たちには、さまざまな選択肢がありました。
そして、その選択によって、兵士たちの負担や被害も変わっていきます。
正成だけが知恵を使い、幕府軍が何も考えていなかったわけではありません。
双方が相手の動きを読み、自分たちに有利な条件をつくろうとしていた。
千早城の戦いは、そのような駆け引きの積み重ねだったのでしょう。
石と丸太、そして戦いの工夫
『太平記』には、千早城の戦いについて数々の逸話が描かれています。
幕府軍が城へ攻め寄せると、正成たちは高い場所から石を落とし、敵を撃退したと伝えられています。
また、城の外に藁人形を並べて敵を誘い出し、近づいてきたところを攻撃したという話もあります。
幕府軍が大きな梯子を使って攻め込もうとすると、正成たちは火を用いてその梯子を焼き払ったとも描かれています。
これらの逸話が、すべて記録どおりに行われたかどうかは分かりません。
『太平記』には、合戦の様子を劇的に描いた場面が数多くあるからです。
しかし、ここで考えたいのは、それらの工夫が生まれる背景です。
当時の兵士たちは、現在のような機械や設備を持っていたわけではありません。
自分たちの身近にある材料を使い、必要な道具をつくり、状況に応じて戦い方を工夫していました。
木材を切る人。
石を集める人。
道具を運ぶ人。
防御施設を修理する人。
戦いが始まる前にも、始まってからも、数多くの仕事が必要だったはずです。
そして、相手の攻撃方法が変われば、防御する側も考え方を変えなければなりません。
一度成功した方法が、次も通用するとは限らないからです。
正成は、そのような現場の判断をどのように行っていたのでしょうか。
すべてを一人で考えて指示していたのでしょうか。
それとも、周囲の武士たちや、実際に作業を担う人々の経験や知恵も取り入れていたのでしょうか。
具体的な指揮の方法は分かっていません。
しかし、長期間にわたる籠城戦を維持するためには、指揮官の判断だけでなく、それを実行する人々の協力が必要だったことは間違いありません。
水がなければ、城は守れない
千早城の戦いを考える上で、水の確保は重要な問題です。
食料を蓄えていても、水を使えなくなれば、人間は長く生活することができません。
また、馬を飼い、食事をつくり、負傷者の世話をするためにも、水は必要です。
幕府軍も、そのことを理解していたでしょう。
『太平記』には、幕府軍が千早城の水源を断とうとしたものの、城内に湧き水があり、思うようにいかなかったという話が残されています。
「五所の秘水」と呼ばれる水に関する伝承もあります。
実際の水源や当時の利用方法については、遺構や記録を慎重に検討する必要があります。
ただし、長期間にわたり籠城するためには、水の確保が不可欠だったことに変わりはありません。
ここから、正成たちの準備について考えることができます。
城を築くとき、敵が登りにくい場所を選ぶだけでは十分ではありません。
そこに人々が滞在し、生活できることも必要です。
雨が降った場合はどうなるのか。
水が不足した場合はどうするのか。
敵に出入り口を封鎖された場合はどうするのか。
戦いが始まる前から、こうした問題を考えておかなければ、いざというときに対応できません。
正成たちが千早城を守り続けた背景には、戦場での機転だけではなく、事前の準備があったのではないでしょうか。