楠木正成 千早城の戦い。圧倒的な大軍を相手に、なぜ戦い続けられたのか【2】
一度は城を失った正成
千早城の戦いを考えるには、その前に起きた赤坂城の戦いを見ておく必要があります。
1331年、後醍醐天皇による倒幕の動きが進む中、正成は河内の赤坂城で鎌倉幕府軍と戦いました。
しかし、正成たちは城を守り抜くことができませんでした。
幕府軍の攻撃を受け、赤坂城は落城します。
『太平記』では、正成が城から脱出し、幕府軍の追跡を逃れたと描かれています。
このとき正成は、何を考えていたのでしょうか。
城を守るために最後まで戦うことも、一つの選択だったでしょう。
しかし、城を失っても、生き残ることができれば、次の戦いに備えることができます。
正成は、最初の戦いで望む結果を得られませんでした。
それでも、そこで戦いを終わらせることはありませんでした。
再び兵を集め、戦い方を考え、次の行動に移ります。
ここには、正成の人物像を考える上で、重要なものがあるように思います。
一度失敗した方法を、そのまま繰り返すだけでは、結果は変わりません。
何が足りなかったのか。
どこに問題があったのか。
次に同じ状況になったとき、何を変えるべきなのか。
正成が実際にどのような検討を重ねたのかを伝える記録はありません。
しかし、赤坂城を失った後も戦い続け、千早城では長期間の防衛に成功したという経過からは、状況に応じて戦い方を変えていった姿が見えてきます。
正成は、一つの城だけで戦っていたのではない
金剛山周辺には、千早城だけでなく、上赤坂城や下赤坂城など、楠木氏に関係する複数の城がありました。
これらの城は、それぞれ異なる地形に築かれています。
山麓に近い場所。
谷を見下ろす場所。
険しい山中の高所。
それぞれの城には、違う役割があったと考えられます。
敵の進軍を監視する。
相手の動きを妨げる。
仲間が退却する時間をつくる。
そして、最後まで抵抗を続ける拠点を確保する。
正成たちは、一つの城だけにすべてを頼るのではなく、金剛山周辺の地形を利用しながら戦っていたのでしょう。
1333年、幕府軍は上赤坂城を攻撃します。
上赤坂城の守備にあたった人々は抵抗を続けましたが、やがて水の確保が難しくなり、城は落ちることになります。
その後、幕府軍は千早城への攻撃を強めていきました。
ここで注目したいのは、同じ山城でも、守り続けられる条件が違っていたことです。
城の高さだけではありません。
水を確保できるか。
食料を蓄えられるか。
敵に包囲されたとき、どのような方法で守るか。
そして、そこで戦う人々が、どれほど長く抵抗できるのか。
正成の戦いは、勇気や根性だけで説明できるものではなかったと思います。
地形を知り、城ごとの条件を考え、人々を配置し、戦いを続けるための準備をしていたからこそ、千早城での抵抗が可能になったのではないでしょうか。