楠木正成 千早城の戦い。圧倒的な大軍を相手に、なぜ戦い続けられたのか【1】
1333年。
河内国、金剛山の山中にある千早城。
険しい山の斜面を、鎌倉幕府の軍勢が取り囲んでいました。
城に立てこもるのは、楠木正成とその仲間たち。
幕府側は多くの兵を集め、次々と攻撃を仕掛けます。しかし、千早城は簡単には落ちません。
当時の戦いを描いた『太平記』には、正成がわずか千人ほどの兵で、数十万から百万ともされる幕府の大軍を迎え撃ったという話が残されています。
もちろん、その兵数をそのまま史実とすることはできません。中世の軍記物語には、戦いの規模や人物の活躍を大きく描く表現が見られるからです。
それでも、千早城に立てこもった正成たちが、はるかに大きな幕府軍を相手に長期間戦い続けたことは確かです。
なぜ、そのようなことが可能だったのでしょうか。
正成が特別に優れた軍略家だったからでしょうか。
千早城が攻め落としにくい地形にあったからでしょうか。
それとも、正成の周囲にいた人々が、同じ目的のために力を合わせていたからでしょうか。
今回は、千早城に残る地形と歴史の記録から、楠木正成とその仲間たちの戦いを考えてみたいと思います。

河内の山々に築かれた城
現在の大阪府南河内郡千早赤阪村。
大阪の市街地から離れたこの地域には、金剛山へと続く山々が広がっています。
山の斜面には谷が入り込み、平地とは異なる複雑な地形が続きます。
現在も千早城跡は、険しい山の上に残されています。
城跡の頂上には千早神社が鎮座し、かつて城の一部だったと考えられる平坦地や段状の地形が残っています。
現在の姿から、当時の建物や防御施設のすべてを復元することはできません。
しかし、城を取り囲む地形を見れば、なぜこの場所が戦いの拠点に選ばれたのか、考える手がかりが見えてきます。
幕府軍がどれほど多くの兵を集めても、狭い山道を一度に通れる人数には限りがあります。
険しい斜面を登るときには、平地のように自由に移動することもできません。
さらに、高い場所を守る側は、敵の接近を早く発見することができます。
もちろん、高い場所に陣取れば必ず勝てるわけではありません。
水や食料が尽きれば、城に立てこもった人々の方が追いつめられることになります。
戦いが長く続けば、負傷者も増え、疲労も蓄積していきます。
つまり、千早城の地形は正成たちに有利な条件を与える一方で、そこにとどまり続けるためには周到な準備が必要だったのです。
正成は、その両方を考えていたのでしょうか。