楠木正成 平泉寺の深い森に残された供養塔。なぜ遠く越前の地で弔われたのか【2】
翌1336年、再び京都を目指して進軍しました。
尊氏の側にも、彼を支持する多くの武士たちがいました。
彼らには彼らの事情があり、守りたい土地や家族、将来への期待があったのでしょう。
一方の正成も、後醍醐天皇のもとで戦い続けていました。
これまで同じ目的のために戦ってきた人々が、なぜ敵味方に分かれてしまったのでしょうか。
そこには、政治の進め方をめぐる意見の違いだけでなく、武士たちが生き残るための判断もあったと考えられます。
後から歴史を振り返れば、どちらが勝ったのかを知ることはできます。
しかし、その時代を生きる人々には、未来の結果など分かりません。
誰と行動をともにするのか。
どの道を選べば、自分たちの暮らしを守れるのか。
それぞれが限られた情報の中で判断し、行動していたはずです。
そして正成にも、その選択の時が訪れます。
湊川へ向かった正成
1336年、足利尊氏の軍勢が東へ進み、後醍醐天皇方との決戦が迫ります。
正成は兵庫の湊川で、尊氏の軍勢を迎え撃つことになりました。
『太平記』には、正成が正面からの決戦を避け、天皇が比叡山へ移って敵を京に誘い込み、補給や後方からの攻撃によって勝機を探る策を進言したという話が描かれています。
しかし、その進言は採用されなかったと伝えられています。
この会話が実際にどのような形で行われたのかは、確かなことが分かっていません。
それでも、正成が戦いの条件を重視した人物として描かれていることは興味深いものです。
千早城で、大軍に正面からぶつかるのではなく、地形と戦い方を工夫した正成。
その人物が、今度は不利な場所での決戦に向かうことになったのです。
正成は、どのような思いだったのでしょうか。
自分の考えた作戦を実行できない悔しさがあったのか。
それとも、決められた条件の中で、最後まで勝つ方法を探していたのでしょうか。
正成ほど経験を積んだ武将であっても、すべてを自分の判断で決められたわけではありません。
組織の中にいる以上、自分とは異なる考え方に従わなければならないこともあります。
そして、その決定が、自分だけでなく多くの仲間の命に関わることもあるのです。
同年5月、湊川の戦いが始まりました。
正成は足利軍と戦い、最後には弟の正季らとともに命を落としたと伝えられています。
その最期については、『太平記』に兄弟の印象的なやり取りが描かれています。
ただし、その言葉を歴史上の実際の会話として受け取ることはできません。
私たちが考えたいのは、正成がどれほど立派な最期を迎えたかだけではありません。
それまでの人生で何を学び、どのような人々と出会い、何を守ろうとして戦い続けたのか。
そこに、一人の人間としての正成の姿があるように思います。