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歴史に埋もれた二人の女性。山吹御前と葵御前が見た木曾義仲の運命【3】

2015.02.16

もう一人の女武者、葵御前

山吹御前とは異なり、葵御前は戦場で命を落とした女性として描かれている。

『源平盛衰記』には、木曾義仲の軍勢に、巴と葵という二人の女将軍がいたという記述がある。

そして葵は、礪波山の戦いで討たれたとされる。

礪波山とは、現在の富山県と石川県の境に位置する倶利伽羅峠周辺を指している。

1183年、木曾義仲が平氏軍を破り、その後の戦局を大きく変えた場所である。

この戦いについては、平氏の大軍が義仲軍に敗れ、多くの兵を失ったことが伝えられている。

後世の物語では、牛の角に松明をつけて敵陣に放つという「火牛の計」が有名だが、これが実際に行われたかどうかは確認されていない。

ただ、倶利伽羅峠の周辺が険しい地形を持つことは、現地の地形からも分かる。

山道は平坦な土地とは違い、移動できる方向が限られる。

大軍であっても、一度にすべての兵を動かすことは難しい。

敵の動きを読み、地形を利用することが、戦いの結果を左右することもあっただろう。

葵御前は、この戦いに参加していたというのである。

ここで一つの疑問が生まれる。

もし葵が実在し、実際に戦場に立っていたのなら、彼女はどのような立場で戦っていたのだろう。

巴御前のように、自ら馬を駆り、武器を持って敵に立ち向かったのだろうか。

それとも、別の役割を担っていたのだろうか。

『源平盛衰記』では女将軍と呼ばれているものの、葵が実際にどのような軍勢を率い、どのように戦ったのかについて、詳しい記録が残されているわけではない。

そもそも葵御前の実在自体、確かな史料で確認できていない。

それでも、葵という女性が戦場で命を落としたと語られてきたことは、考えてみる価値がある。

巴御前は生き延びたと描かれた。

山吹御前は病気のため京都に残ったと描かれた。

そして葵御前は、義仲が最も勢いを得た戦いの中で、命を落としたと描かれている。

三人とも義仲の近くにいたと伝えられながら、その結末はまったく異なっている。

葵御前の故郷をたどる

葵御前の出自についても、信濃の地に伝承が残されている。

現在の長野県長野市周辺に勢力を持っていた栗田氏の娘だったという話である。

栗田氏は、水内郡を中心に活動した武士の一族であり、善光寺周辺の歴史とも関わりが深い。

葵御前は栗田範覚の娘で、義仲が父を助けたことから義仲に仕えるようになったと伝えられる。

もしこの伝承に何らかの歴史的な背景があるとすれば、義仲の勢力が木曾の周辺だけでなく、信濃北部の人々とも結びついていった過程を考える手がかりになるかもしれない。

ただし、栗田氏との関係や、葵が義仲に仕えるようになった経緯については、伝承と史実を区別する必要がある。

それでも興味深いのは、葵御前が木曾ではなく、別の地域の武士の娘として語られていることである。

義仲の軍勢は、最初から一つの家族のような集団だったわけではない。

それぞれ違う地域で暮らし、異なる事情を抱えていた人々が、ある時期から義仲のもとへ集まった。

その理由は、源氏という血筋への期待だったかもしれない。

平氏に対する不満だったかもしれない。

地域の利害関係や、個人的な信頼が関わっていた可能性もある。

人々が集まった理由は、必ずしも一つではなかっただろう。

そして、その中には女性もいたと語られている。

もし葵御前が実在したのであれば、彼女もまた、自分の生まれた土地や一族との関係を持ちながら、義仲の軍勢に加わった一人だったのかもしれない。

木曾義仲の人生を、義仲一人の能力だけで説明することはできない。

さまざまな土地から集まった人間たちが、それぞれの知識や経験を持ち寄ったからこそ、大きな軍勢になっていったのではないだろうか。

なぜ葵御前は、巴御前ほど知られていないのか

ここで、もう一度三人の女性を比べてみたい。

巴御前。

山吹御前。

葵御前。

この三人のうち、現在最もよく知られているのは、間違いなく巴御前だろう。

しかし、それは巴御前が最も優れた人物だったことを意味するのだろうか。

必ずしも、そうとは言えない。

歴史に名前が残るかどうかは、その人物の能力だけで決まるわけではないからである。

『平家物語』の「木曾最期」は、義仲の悲劇的な最後を描く有名な場面である。

その中で巴御前は、敵の武将を討ち取り、最後に戦場を離れていく。

武勇と別れ、そしてその後の謎。

短い場面の中に、人々の記憶に残りやすい要素が重なっている。

一方、山吹御前は病気で都に残り、葵御前はそれ以前の戦いで命を落としたとされる。

二人には、巴御前のような鮮烈な別れの場面が広く語り継がれなかった。

さらに、巴御前は能や歌舞伎、浮世絵など、後の時代のさまざまな芸術作品にも登場していく。

こうして、物語が物語を呼び、巴御前の姿は人々の間に広まっていった。

ただし、ここには注意すべきことがある。

巴御前が有名になった理由を、一つの場面だけで説明することはできない。

時代によって人々が求める人物像は変わる。

勇敢な女性として描かれることもあれば、愛する人を失った悲劇の女性として描かれることもある。

その時代の人々が、巴御前という存在に何を重ねたのか。

その積み重ねが、現在の巴御前像を形づくってきたのだろう。

では、山吹御前や葵御前は、忘れられてしまったのだろうか。

実は、そうとも言い切れない。

二人の名前もまた、地域の伝承や後世の物語の中で生き続けてきたのである。

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