壬申の乱の謎|わずかな従者で吉野を出た大海人皇子は、なぜ国家の軍勢を破ることができたのか【12】
壬申の乱から見えてくる、国家を動かす本当の力
壬申の乱を振り返ると、大海人皇子の勝利には多くの疑問が残ります。
なぜ少数の従者から大軍を集めることができたのか。
なぜ吉野から直接近江へ向かわず、東国を目指したのか。
なぜ兵士を集めるより先に、不破道の確保を命じたのか。
なぜ政治の中心にいた近江側は、地方の力を十分に動かすことができなかったのか。
そして、なぜ戦いに勝利した天武天皇は、その後、国家制度の整備を進めていったのでしょうか。
これらの疑問には、史料だけでは答えを出せない部分があります。
しかし、残された記録をつなぎ合わせ、ものづくりや生産活動、人々の移動という視点から考えると、一つの可能性が浮かび上がります。
それは、壬申の乱が、単に大海人皇子と大友皇子のどちらが優れていたかという争いではなかったということです。
大海人皇子は、地方の人々の協力を得て、その地域が持つ力を結びつけました。
一方、近江側は政治の中心にありながら、その力を十分に集めることができなかった地域もありました。
私たちは、ここに国家を動かすことの難しさが表れているように思います。
人がいることと、人が動くことは違います。
技術があることと、その技術を目的に合わせて使えることも違います。
物資があることと、必要な場所へ届けられることも違います。
そして、権限があることと、人々が協力することも同じではありません。
壬申の乱では、その違いが短期間のうちに明らかになったのかもしれません。
さらに興味深いのは、勝利した大海人皇子自身も、地方の協力がなければ勝てなかった可能性が高いということです。
つまり、地方の力に支えられて勝利した人物が、その後、天皇を中心とする国家制度の整備を進めていったのです。
ここには、一見すると矛盾した歴史の流れがあります。
地方の力が勝利をもたらした。
しかし、その後の国家づくりでは、地方の力をより広い制度の中で把握しようとする動きが進められた。
このことは、何を意味しているのでしょうか。
私たちは、今回の歴史探訪で次のように考えました。
壬申の乱の勝者は、大海人皇子だった。しかし、実際に勝利を可能にしたのは、彼を支えた各地の人々と、その地域に蓄積されていた力だったのではないか。
そして、天武天皇の時代に進められた国家制度の整備は、そうした力を個人的な関係や一時的な協力だけに頼らず、より安定して結びつけるための試みでもあったのではないでしょうか。
もちろん、これは当時の人々が明確に語った結論ではありません。
残された史料から確認できる出来事と、私たちなりの考察を結びつけた一つの仮説です。
しかし、このように考えることで、壬申の乱は皇族同士の権力争いだけではなく、古代日本がどのようにして国家を形づくっていったのかを探る重要な出来事として見えてきます。
そして、その国家を支えたのは、政治の中心にいた人々だけではありませんでした。
道を造り、橋を架け、鉄を加工し、田畑を耕し、人や物資を運んだ人々。
歴史に名前を残さなかった人々の仕事が、戦争を動かし、その後の社会を支えていたのです。
国家の力とは、誰か一人が大きな権力を持つことではなく、多くの人々が持つ力を、どのように結びつけていけるかということなのかもしれません。
壬申の乱は、そのことを私たちに問いかけているように思います。
次回予告|天武天皇と律令国家の謎 なぜ日本は人と土地を国家が把握する仕組みを必要としたのか
壬申の乱に勝利した大海人皇子は、天武天皇として即位しました。
その後、日本では国家制度の整備がさらに進められ、やがて律令国家の形成へとつながっていきます。
しかし、ここにも大きな疑問があります。
なぜ国家は、各地で暮らす人々や土地を、より細かく把握する必要があったのでしょうか。
税を集めるためだったのでしょうか。
兵士を動員するためだったのでしょうか。
それとも、道路や都城、防衛施設などの大規模な事業を進めるために、全国の人々と生産力を把握する必要があったのでしょうか。
さらに、戸籍や土地の管理には、文字を扱う人々、測量技術、記録を保管する仕組みなどが欠かせません。
制度を定めるだけでは、国家を動かすことはできなかったはずです。
次回は、天武天皇の時代から律令国家の形成へと続く流れを、人々の暮らし、生産活動、測量や記録の技術という視点から探っていきます。
なぜ日本は、人と土地を国家として把握しようとしたのか。
そして、その仕組みは、実際に人々の暮らしをどのように変えていったのでしょうか。