壬申の乱の謎|わずかな従者で吉野を出た大海人皇子は、なぜ国家の軍勢を破ることができたのか【7】
戦う人より、戦いを続けさせる人のほうが多かったのではないか
壬申の乱では、各地から兵士が動員されました。
しかし、兵士が集まれば、それで戦争が始められるわけではありません。
軍勢が移動するためには、食料と水が必要です。
武器や装備も必要になります。
負傷した人を運ぶ手段も必要だったでしょう。
長い距離を移動すれば、道具や装備が壊れることもあります。
その修理に関わる人々も必要だったかもしれません。
もちろん、現存する史料から、壬申の乱における補給担当者の人数や、軍勢を支えた人々の総数を算出することはできません。
しかし、兵士を支える仕事が存在したこと自体は、軍事行動の性質から考えても自然なことです。
ここで、一つ考えてみます。
大海人皇子側に協力した地方豪族たちは、兵士だけを提供したのでしょうか。
それとも、食料や運搬手段など、軍勢が行動するためのさまざまなものを提供したのでしょうか。
もし後者であれば、地方豪族の協力は、単純な兵士の人数以上に大きな意味を持っていたことになります。
例えば、ある地域から百人の兵士が加わったとしても、食料がなければ長く活動することはできません。
逆に、別の地域が兵士を出せなくても、食料や輸送に協力することで軍勢を支えられた可能性があります。
つまり、軍事力は戦場に立つ人数だけで決まるものではありません。
その背後にある生産力や運搬能力、地域社会の協力が重要になります。
ここから、私たちは一つの見方を考えます。
大海人皇子が集めたのは兵士だけではなく、各地の人々が持つ仕事の力だったのではないか。
それが短期間で集まったからこそ、軍勢を維持し、複数の地域で戦いを進めることができたのかもしれません。
なぜ大海人皇子は、自分ですべての軍勢を指揮しなかったのか
壬申の乱では、大海人皇子がすべての戦場に出向いて戦ったわけではありません。
美濃の不破周辺を重要な拠点としながら、近江方面と大和方面で、それぞれ軍事行動が展開されました。
近江方面では村国男依らが軍勢を率い、大和方面では大伴吹負(おおとものふけい)らが活動しました。
ここで注目したいのは、大海人皇子自身が一つの場所にとどまりながら、複数の軍勢が別々の場所で行動していたという点です。
これは、単に兵士を集めることとは異なる問題です。
離れた場所で行動する軍勢に、どこまで判断を任せるのか。
それぞれの軍勢がどのような目的を持ち、どの地域を押さえようとするのか。
戦場の状況が変化したとき、誰が判断するのか。
こうした問題が生じます。
当時の具体的な命令の伝達方法や、各指揮官にどれほどの裁量が与えられていたのかは、十分には分かっていません。
それでも、別々の地域で軍勢が動いていたことは確認できます。
ここから、私たちは新たな疑問を持ちます。
大海人皇子は、強い権限を持つ一人の指導者として、すべてを自分で決めていたのでしょうか。
それとも、地域の事情を知る人々に判断を任せながら、戦い全体の方向を定めていたのでしょうか。
もし後者の要素が大きかったとすれば、地方豪族や指揮官たちの役割は、単なる命令の実行者ではなかったことになります。
自分たちの地域や戦場の状況に応じて行動する人々がいて、初めて複数の軍勢を動かせた可能性があります。
ここで、近江側との違いを考えてみます。
近江側にも指揮官や地方の協力者は存在していました。
しかし、実際に兵士を動員し、必要な場所へ送ることが難しかった地域もありました。
両陣営の指揮系統を詳細に比較できる資料は限られています。
それでも、壬申の乱の勝敗を考えるうえでは、どちらの指導者が優れていたかという問題だけでなく、各地の人々がどれほど実際に動ける状態にあったのかという点が重要だったように思います。