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壬申の乱の謎|わずかな従者で吉野を出た大海人皇子は、なぜ国家の軍勢を破ることができたのか【8】

2014.12.18

飛鳥を押さえた大伴吹負の行動は、何を意味していたのか

壬申の乱では、美濃から近江へ進む軍勢だけでなく、大和でも重要な戦いが繰り広げられました。

大伴吹負は、大和で大海人皇子側の軍勢を率い、飛鳥の拠点を押さえることに成功します。

しかし、その後の戦いは順調なものばかりではありませんでした。

大和方面の軍勢は一時的に敗北を経験し、立て直しながら戦いを続けています。

ここで注目したいのは、飛鳥という場所です。

飛鳥は、長い間、倭国の政治の中心となってきた地域でした。

大王の宮殿が置かれ、寺院が建設され、政治や文化に関わる人々が集まっていました。

飛鳥の周辺には、政治の中心を支えるためのさまざまな仕組みが存在していたはずです。

では、大伴吹負が飛鳥を押さえたことには、どのような意味があったのでしょうか。

単に土地を一つ手に入れたというだけではなかったのかもしれません。

かつての政治の中心を押さえることで、そこに存在していた人や施設、交通路などを利用できる可能性があります。

さらに、飛鳥を押さえることが、地域の豪族たちの判断に影響した可能性も考えられます。

ただし、具体的にどのような物資や施設を大海人皇子側が利用したのか、すべてが明らかになっているわけではありません。

それでも、近江方面と大和方面で同時に戦いが進められていたことには意味があります。

近江側は、複数の地域への対応を迫られることになりました。

一方、大海人皇子側は、それぞれの地域で協力者を増やしながら戦いを展開しました。

ここから、私たちは一つの可能性を考えます。

壬申の乱は、一つの大軍がもう一つの大軍を倒した戦争というよりも、各地の重要な場所を押さえながら、地域の力を取り込んでいく戦争だったのではないか。

そして、その行動を支えていたのは、それぞれの土地を知る人々だったのかもしれません。

最後の戦いは瀬田川で起きた。なぜ川が重要だったのか

壬申の乱の最終局面で重要な戦場となったのが、近江の瀬田川付近です。

瀬田川は琵琶湖から流れ出る川で、近江の交通を考えるうえで重要な場所です。

『日本書紀』には、近江側が瀬田川の橋を利用して防戦し、大海人皇子側の軍勢がこれを突破したと伝えられています。

最終的に近江側は敗北し、大友皇子は命を絶ちました。

ここで、もう一度、道路と地形の問題が浮かび上がります。

大海人皇子側は、戦いの初めに不破道を押さえようとしました。

そして、戦いの終盤には瀬田川の橋が重要な場所となったのです。

なぜ、橋や道が繰り返し登場するのでしょうか。

川を渡るには、船や浅瀬、橋などの手段が必要になります。

大勢の兵士が移動する場合、その方法はさらに重要です。

川のどこでも自由に渡れるわけではありません。

兵士が渡ることのできる場所が限られていれば、その場所を守る側は、相手の移動を妨げやすくなります。

一方、攻める側は、そこを突破しなければ先へ進めません。

ここで重要なのは、川そのものが敵になったわけではないということです。

川を渡る場所が限られているため、人々の行動も制約を受けるのです。

つまり、自然の地形と、人が造った交通施設が、戦争の展開に深く関わっていました。

そして、橋は誰かが造ったものです。

木材を用意し、加工し、組み立てた人々がいたはずです。

川の流れを理解し、橋を設ける場所を選んだ人々もいたでしょう。

そうした人々の仕事によって、普段は人や物資が移動できるようになっていました。

ところが戦争になると、同じ橋が軍事上の重要な場所になります。

ここにも、ものづくりと歴史の関係が表れています。

人々の暮らしを便利にするための道や橋が、戦争のときには勝敗を左右する場所にもなる。

壬申の乱では、戦争が始まるずっと前から存在していた交通や地域の仕組みが、戦場で大きな意味を持つことになったのではないでしょうか。

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