壬申の乱の謎|わずかな従者で吉野を出た大海人皇子は、なぜ国家の軍勢を破ることができたのか【6】
壬申の乱は、道路をめぐる戦いでもあったのか
大海人皇子が吉野を出発してから美濃へ到着するまでには、いくつもの地域を通過しています。
その間には山道があり、川があり、人々が暮らす集落がありました。
『日本書紀』には、駅家と呼ばれる交通施設についての記述も登場します。
大海人皇子の一行が伊賀を通過する際、駅家を焼いたという記録が残されています。
この行動には、どのような意味があったのでしょうか。
駅家は、当時の交通や連絡の仕組みを考えるうえで重要な施設です。
ただし、672年当時の駅家が、後の律令制によって整備された駅制とまったく同じ仕組みだったとは限りません。
それでも、駅家が移動や連絡に関わる施設だったことを考えると、その破壊には何らかの軍事的な意味があった可能性があります。
敵が利用する交通機能を妨げようとしたのでしょうか。
あるいは、追跡を遅らせるためだったのでしょうか。
実際の目的を断定することはできません。
しかし、不破道を押さえたことと、途中の交通施設に手を加えたことを合わせて考えると、大海人皇子側が人々の移動や連絡を意識していたことがうかがえます。
ここで、少し視点を変えてみます。
道路というと、現在では人や車が移動するための設備として考えます。
しかし、古代の道路は、地域と地域を結ぶ重要な仕組みでもありました。
人が通ることで、情報が伝わります。
物資が運ばれることで、遠く離れた場所で仕事ができるようになります。
兵士が移動することで、地域の軍事力が別の場所でも使えるようになります。
つまり、道路は単に土地と土地を結ぶものではありません。
人と情報と物資を結びつけるものだったのです。
そのため、道路を押さえることは、相手の兵士の通行を妨げるだけでなく、相手がほかの地域と協力する機会を制限することにもつながります。
私たちは、ここに壬申の乱の特徴が表れているのではないかと考えます。
大海人皇子は、敵の軍勢を直接倒す前に、敵が新たな軍勢を集めるための道を押さえようとしたのではないか。
そうだとすれば、壬申の乱の勝敗は、戦場で刀や弓を交える前から、少しずつ形づくられていた可能性があります。
道を知っている人々は、なぜ重要だったのか
道路を利用して軍勢を動かすには、地形を知る必要があります。
どこに川があるのか。
どこで渡ることができるのか。
山道のどこが狭くなっているのか。
どの道を通れば、より早く目的地へ着けるのか。
どの集落なら食料や水を確保できるのか。
こうした情報は、地元で暮らす人々が持っていた可能性があります。
大海人皇子が伊賀や伊勢を通過するとき、地域の人々が協力したことは、単なる兵力の増加以上の意味を持っていたかもしれません。
例えば、道に詳しい人々が同行すれば、移動の負担を減らせる可能性があります。
川を渡る場所を知っていれば、無駄な遠回りを避けられます。
地域で食料を調達できれば、遠方からすべてを持ち運ぶ必要はなくなります。
もちろん、実際にどのような案内役や補給担当者が存在したのか、詳細な記録は残っていません。
しかし、わずかな従者から始まった一行が短期間で移動し、軍勢を拡大していったことを考えると、地域の知識が何らかの形で役立った可能性は十分にあります。
ここで注目したいのは、歴史書に名前が残る豪族や将軍だけではありません。
馬を扱う人々。
荷物を運ぶ人々。
川を渡る方法を知る人々。
道を案内する人々。
食料を準備する人々。
そうした人々が存在しなければ、軍勢は思うように移動できなかったはずです。
大海人皇子の進軍を、皇子一人の判断や能力だけで説明するのは難しいのではないでしょうか。