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壬申の乱の謎|わずかな従者で吉野を出た大海人皇子は、なぜ国家の軍勢を破ることができたのか【5】

2014.12.15

本当に不思議なのは、兵士より先に命令が届いていたこと

ここで、壬申の乱の記録をもう一度見てみます。

大海人皇子は、吉野から出発する前に村国男依らを美濃へ送りました。

使者たちは現地で兵を集め、不破道を押さえるために行動しました。

その後、大海人皇子自身が東へ向かっています。

この順序には、重要な意味があるように思います。

大海人皇子が到着してから協力を求めたのではなく、本人が到着する前に、すでに準備が進められていたのです。

しかし、ここでさらに疑問が生まれます。

使者は、どうやって現地の人々を動かしたのでしょうか。

大海人皇子の名前を告げるだけで、地方の豪族たちは兵士を集めてくれたのでしょうか。

命令を受けた人々は、それが本当に大海人皇子の意思であると、どのように確認したのでしょうか。

当時の具体的な連絡方法について、すべてが明らかになっているわけではありません。

しかし、遠く離れた場所で行動を起こしてもらうには、使者を受け入れる人間関係や、命令を伝える仕組みが必要だったと考えられます。

ここから、私たちは一つの可能性を考えます。

大海人皇子が挙兵した時点で、地方にはすでに協力を期待できる人物がいたのではないでしょうか。

そして、村国男依らの役割は、初対面の人々を説得するだけではなく、以前から存在していた関係を実際の行動に変えることだったのかもしれません。

大海人皇子と美濃の関係を考えるうえでは、美濃国安八郡にあった湯沐邑(ゆのむら)の存在も重要です。

これは皇族に関係する領地で、『日本書紀』には、大海人皇子がこの地域へ使者を送ったことが記されています。

つまり、美濃は大海人皇子にとって、まったく縁のない土地ではありませんでした。

そこには、以前から人や土地を通じた関係が存在していた可能性があります。

では、その関係はどのように築かれたのでしょうか。

日頃から土地の管理や生産、物資のやり取りに関わる人々がいたとすれば、彼らは戦争になったときにも連絡や動員の役割を担えたかもしれません。

もちろん、湯沐邑の具体的な運営方法や、大海人皇子が挙兵前にどの程度の準備をしていたのかは、十分には分かっていません。

しかし、ここには重要な違いがあります。

戦争が始まってから協力者を探すことと、以前からの関係を使って人々に協力を求めることでは、行動に移せる速さが違うのではないか。

大海人皇子の行動が早かった理由は、その場での判断力だけでは説明できないのかもしれません。

挙兵前から存在していた人と人との関係が、いざというときに大きな力を発揮した可能性があります。

近江側には政治の中心があった。それでもなぜ動員が遅れたのか

ここまで大海人皇子側の行動を見てきましたが、今度は近江側について考えてみます。

天智天皇の政治を引き継いだ近江側には、大津宮という政治の中心がありました。

各地の役人と連絡を取り、兵士や物資を集めるための行政的な仕組みも存在していたと考えられます。

では、なぜ大海人皇子側の急速な勢力拡大を防げなかったのでしょうか。

『日本書紀』には、近江側も各地へ使者を送り、兵士を集めようとしたことが記されています。

しかし、東国へ向かう交通路は大海人皇子側に押さえられ、各地での動員も近江側の意図どおりには進みませんでした。

吉備や筑紫でも、近江側の兵力動員には困難が生じたと伝えられています。

JapanKnowledge

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ここで私たちは、中央に政治の仕組みがあることと、その命令が必ず実行されることは別ではないかと考えます。

例えば、中央から地方へ兵士の動員を命じたとします。

しかし、命令を受けた地方の役人が協力しなければ、人は集まりません。

使者が途中で通行を妨げられれば、命令そのものが届きません。

地域の豪族が別の政治勢力を支持していれば、集めた兵士が中央の思いどおりに動くとも限りません。

つまり、中央に命令する権限があっても、その権限だけで全国の力を自由に動かせたとは限らないのです。

ここで、白村江の戦いとのつながりを考えてみます。

白村江の敗戦を通じて、倭国には各地の人員や物資を国家全体として動かす仕組みが重要だったのではないかと、前回は考察しました。

壬申の乱では、その問題が国内の権力争いの中で表れたようにも見えます。

近江側には政治の中心がありました。

しかし、そのことだけで、各地の人々の協力を確保できるわけではありませんでした。

一方、大海人皇子は政治の中心から離れていましたが、地域の人々の協力を集め、交通路を確保することによって軍勢を拡大しました。

ここに、私たちは今回の大きな謎の一つを感じます。

国家の中心にいることと、国家を実際に動かせることは、必ずしも同じではなかったのではないか。

そして、壬申の乱は、その違いが勝敗を左右した戦いだった可能性があります。

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