壬申の乱の謎|わずかな従者で吉野を出た大海人皇子は、なぜ国家の軍勢を破ることができたのか【4】
不破道を押さえることは、何を意味したのか
現在の岐阜県関ケ原町周辺は、古くから東西を結ぶ重要な交通の要衝でした。
この地域を通る不破道は、近江と美濃を結ぶ重要な通路でした。
『日本書紀』には、大海人皇子が挙兵に先立ち、不破道を塞ぐよう命じたことが記されています。
ただし、後に整備された不破関の施設が、672年の時点ですでに同じ姿で存在していたと考えることはできません。
ここで問題にしているのは、後世の関所の建物ではなく、東西をつなぐ交通路そのものです。
では、不破道を押さえると何が起こるのでしょうか。
近江側から東国へ使者を送ろうとしても、通行が難しくなります。
東国から近江側へ兵士を送る場合も、同じです。
軍勢だけでなく、物資の移動や情報の伝達にも影響が及びます。
そして、大海人皇子側にとっては、美濃やその東の地域で協力者を集めるための時間が生まれます。
つまり、不破道を押さえることは、単に敵軍の侵入を防ぐためだけの行動ではなかった可能性があります。
近江側が東国の力を利用する道を制限しながら、自分たちは東国の力を取り込む。
そのような役割があったのではないでしょうか。
ここで興味深いのは、道路そのものを新しく造ったわけではないということです。
すでに存在していた道のどこを押さえるかによって、人々の動きが大きく変わる可能性があります。
同じ道であっても、誰が管理するかによって、戦争における意味が変わるのです。
これは、壬申の乱が単に兵士の数や武器の強さを競う戦いではなかったことを考える手がかりになります。
数十人が数千人に変わる。その間に何が起こったのか
『日本書紀』によれば、大海人皇子が吉野を出発したときの一行は、非常に小規模でした。
ところが、伊賀に入ると、地元の人々が加わり始めます。
伊賀の阿拝郡などでは、地域の役人や豪族が兵士を率いて協力したと記されています。
さらに伊勢、美濃へと進む中で、大海人皇子側の勢力は拡大していきました。
しかし、ここで私たちは疑問を持ちます。
数百人の兵士が集まったというと、すぐに戦える軍勢が完成したように感じるかもしれません。
でも、実際にはどうだったのでしょうか。
それぞれの兵士は、どこから来たのでしょう。
武器は自分で持っていたのでしょうか。
食料は誰が準備したのでしょうか。
集まった兵士たちは、それまで一緒に戦った経験があったのでしょうか。
指揮官の命令を、どのように伝えたのでしょうか。
地域ごとに集まった人々が、短期間で統一した行動を取ることは、簡単ではなかったはずです。
ここで重要になるのが、地方豪族たちの存在です。
豪族たちは、単に大海人皇子を支持する意思を表明しただけではなかった可能性があります。
人を集め、食料を用意し、地域の道や地形を知る人を動かすなど、さまざまな役割を担ったと考えられます。
もちろん、個々の豪族がどのように兵士を集め、物資を用意したのかを示す詳細な記録は残っていません。
しかし、軍勢が短期間に増えたという事実の背後には、それを可能にした地域社会の仕組みが存在したはずです。
大海人皇子が一人ずつ兵士を集めたのではなく、すでに人々を組織する力を持っていた地方の勢力が、大海人皇子側に加わっていったのではないか。
そう考えると、少数の従者から大軍へと変わった理由が、少し違って見えてきます。
大海人皇子が新しく軍隊を一から造ったというよりも、各地に存在していた組織を、自分の軍勢として結びつけていった可能性があるのです。