壬申の乱の謎|わずかな従者で吉野を出た大海人皇子は、なぜ国家の軍勢を破ることができたのか【2】
白村江の敗戦からわずか9年、倭国はなぜ内乱を起こしたのか
壬申の乱が起きた672年は、白村江の戦いからわずか9年後です。
663年、倭国は百済の復興を支援するために朝鮮半島へ軍勢を送り、唐・新羅の連合軍に大敗しました。
その後、倭国では唐・新羅による侵攻を警戒し、北部九州を中心に防衛施設の整備が進められていました。
水城や大野城などの大規模な施設が築かれ、国家の防衛を意識した活動が行われていた時代です。
さらに、670年には庚午年籍と呼ばれる戸籍が作成されたと記録されています。
人々を把握し、国家の仕組みを整えようとする動きも進んでいました。
そのような時代に、今度は国内で大きな戦争が起こったのです。
ここで疑問が生まれます。
外からの攻撃を警戒しなければならない状況で、なぜ国内の政治勢力は戦争に踏み切ったのでしょうか。
皇位継承をめぐる争いが直接の背景にあったとしても、内乱によって国の力が消耗する危険はあったはずです。
しかも、海外派兵や防衛施設の建設には、多くの人員と物資が必要でした。
その負担が、各地の社会にどのような影響を与えていたのかも気になります。
白村江の敗戦後、国家の防衛や制度の整備が進められました。
しかし、それらを実際に支えていたのは地方に暮らす人々でした。
中央の政治に関わる人々が国家の将来を考えていた一方で、地方の豪族や農民たちは、目の前の生産や暮らしを維持しなければなりません。
壬申の乱は、そのような時代に起きた戦争でした。
私たちは、この内乱を、政治の中心にいた皇族だけの争いとして考えてよいのだろうかと感じます。
国家の仕組みが変わろうとしていた時代だからこそ、地方の人々が誰を支持し、どのように行動するかが、大きな意味を持ったのではないでしょうか。